ライフライン

避難場所での人数

 仕事をさせて頂いているさくら学園のグループの一つである事業所では、水が引くまで出ることが出来なくなっていました。幸い、社屋の二階に避難することができたため皆無事ではありましたが、自衛隊の救助の後我々と合流できたのは数日が経過してからでした。その辺りがはっきりわかるようになるまで、気が気じゃなかったですけど…。
 おいそれと立ち入りできない、規制もかかっている中ではどうすることもできないまま、何人かは杉の入小学校からご自宅に戻せる方がでてきましたね。最初は30人位、利用者さんは居たと思うんです。藻塩の里と合わせると40位は居たかもしれない。
 それが段々減っていって、最終的に10日後位までは20人。
 我々はグループホームの事業もしており、そこのメンバー達も一緒に居たんです。ホームが全部津波にやられてしまった訳ではなかったものの、ライフラインもなく、分散すると職員の配置がつかない状況だったので分散をするとかえって今はまずいだろうと。手の回し様が無くなってしまうので。避難所に一緒に居て、そこで何人かの職員が見守りとかしながらでしたね。

再開へ向けて

施設を再開するのに約4週間。津波が上がった後の、汚泥で真っ黒になった床を全部掃除をするのも大変な作業でした。
のちに法人の職員を応援でつけてもらい、汚泥を掻き出して水を流して掃除をして、なんとか活動できるような状況にして、あとはライフラインが復旧すればというところまで来たところに例の大きな余震ですね、4月7日。
また、せっかく通った電気が止まってしまって。ただあの後の復旧は早かったので、じゃあ復旧したのを確認してから施設を再開しようと。
4月11日から再開すると決め、まずは来て頂けるよう利用者さんの方にも連絡を回しました。
その間も「再開はいつからですか?」という問い合わせが入ったり、訪ねてくる利用者さんも居たり。「ほんとごめんなさい」と言いながら後片づけをして、ようやく再開することができました。

希望の光

ライフラインが復旧したのはいつ頃でしょうか?

ここは遅かったです。近くまでは電気工事の車がきていたのですが、なかなかこちらまで来なくて。ようやく電気がついた時は本当にうれしかったですね。水道はまだでしたが、水は横を流れる川の水を使っていましたから。それでお湯を沸かして。利用者さんの髪や顔を拭いてあげたかったんです。顔を洗ってあげると「やっと洗えたー」と泣くんですよね。いつもなにげなくやっていることがこんなにも嬉しいことなんだと、その時思いました。お湯ってこんなにありがたいんだって。

 

他に苦労した事はありましたか?

利用者さんのお薬を確保するのが大変でした。病院も被災していますし。混乱している中、私と所長が交代でリュックサックを背負って毎日病院まで通いました。また、遺体安置所で所長のお母さんや、利用者さんのご父兄を探す作業もつらかったです。ブルーシートに包まれたご遺体をひとつひとつ確認するという。以来、ブルーシートを見るだけで思い出してしまいます。高台から炎に包まれる気仙沼を見ながら、これからどうなるんだろうという不安でいっぱいでしたが、利用者さんの前で涙を見せてはいけない、笑っていなければならない、職員は笑顔でいようと話しました。ご主人が無くなった職員もいましたが、本当に頑張っていたと思います。それとやはり、障害者に対する偏見、誤解というものが大変でした。いくら説明してもなかなかわかってもらえない。私は福祉というのは心に余裕があってできるものと思っていますので、あのような混乱した状況ではなかなか理解できるものではないし、健常の方が悪いというつもりもありません。でも、障害があるというだけでそういう目で見られてしまう。そうなると、何かお願いをしたくても出来なくなってしまう。それが残念に思えました。ひまわりは被災から一ヵ月もしないうちに再開したんです。どこの事業所さんよりも早かったと思います。それは、ひとりでもひまわりを頼ってくれる人がいるなら、早く再開しようと当時の小松所長が言ったんです。電気も水道もまだこない、でもそこは職員みんなで工夫をしながら。みんなが集まれるところにしてあげようといって。

 

ひまわりの存在が利用者さんやそのご家族の希望になっていたんですね。

そうですね。ひまわりがあったから頑張れたと言ってもらえて。

自宅での生活

ご自宅にはどれくらいの津波が来ましたか?

ここは、床に上がらないぎりぎりくらい。玄関までは入らないくらいです。なので家の中は大丈夫でした。ただ物置の方はたっぷり入って、機械ものは全滅でした。

 

翌日もまだ水は残ってましたか?

水自体は引いたみたいですけど、汚泥がすごくてね。私も老人ホームに行って「今晩はここに泊まるのかな」と思っていたらおふくろが夕方に迎えに来たんですよ。実際は東部循環器科に1泊、老人ホームは半日くらいですね。そこから帰ってくるのに道路が通れなくてあちこち回りながら戻ってきました。何体かの遺体はブルーシートにくるまれてありましたね。うちは家の横の川があったから、そこで水が止まって、直接は水が来なかったんですね。

 

距離はそんなに離れていないけども、川のこちらと向こうでは全然被害が違うんですね。

そうです、全く違います。川の向こうの人たちはかなりの方が亡くなっていますから。住所は同じ門脇地区なんですけどね。川一本で全然違いますね。

 

食べ物などはどうしていましたか?

冷凍食品や米はありました。あとお隣の方がスーパーを経営している人なんですよ。なので、冷凍食品で水に浸かったけど中身が食べられるような物をかごにいっぱいいただいて。

 

ライフラインはどうでしたか?

水と電気はダメでした。ガスはプロパンだったので、リセットボタンを押して使うことができました。ストーブも反射式のものを1台ご近所から借りて、上にヤカンを載せて使っていました。3人で居間に集まって過ごしていました。

 

部屋の中の家具などは大丈夫でしたか?

リビングはわりと大丈夫でした。台所の食器棚は倒れてきて、冷蔵庫に引っかかってたり、2階にある私の部屋の本棚は倒れてガラスがめちゃくちゃに割れていたりしました。なので、自分の部屋にいたらかえって大変でしたね。震災の前までは、家への出入りは電気リフトだったんです。スロープは震災後に付けたんです。震災前の状態だと下りることは何とかできたけど、上ることは絶対無理でしたからね。電気のありがたさを痛感したっていう感じですね。

 

電気はすぐに復旧しましたか?

3月の末ですね。25、6日くらい。水道もほぼ同じでしたね。茶色い水でしたけど。

 

飲み水なんかはどうしていたんですか?

母と弟が自転車で汲みに行ったり、日赤病院の方まで給水車の水をもらいに行きました。

 

この辺は来なかったですか?

歩いて10分くらいの中学校には来てたようですけど、いったん家に避難してしまうとなかなか行きにくいんですよね。「いつも来ていない人が来てる」みたいな感じになるのが気になって。だから物資とかも「取りに行けばもらえるんだよ」という話も聞きましたけど、一切そちらからはもらわなかったですね。

 

この辺の方は自宅にいらした方が多いんですか。

この地域はみんな流されないでいたんで、自宅にいましたね。うちが一番低いんですよ、車いすのスロープを設置したりする関係で。なので、どこの家も給湯器をやられることはなかったんですけど、うちだけはリフトも何もかもやられてしまいました。

 

この地区の汚泥の処理は、ご自分たちで?

そうですね。12日は自宅に戻ってきたけれど、汚泥が酷すぎて車から降りられなかったんです。車内で一晩過ごしました。それで、13日に車いすが1台分通れる泥かきをしてからやっと家の中に入りました。お昼過ぎくらいですね。床にごみ袋から何からを敷いて入ったという感じですね。私も車いすに乗ったまま、1週間はベッドに行かなかったですね、ずっとこの感じで。

 

やはり余震が怖い?

余震が怖いっていうのもありますし、もしベッドに寝たら、起きるまでに津波が来ちゃうよなっていうのがありましたんで。逃げるってなると、私たちは時間がかかりますからね、ベッドから車いすに乗ってってなると。それだけで10分20分はかかりますからね。本当にこの居間から一歩も出ないっていう感じでしたから。

避難所へ

揺れが収まってから、建物から出る段階に移っていったと。

そうですね。ドア自体は開閉できるように抑えていたので、そこで閉じ込められることはなかったです。次に避難経路の確認ということで、イベントをしていた場所が非常階段に近いスペースだったので、一応確認してから皆さんと一緒に避難しました。階段なんかも、壁ににひびが入っていたり、天井からパラパラ小石が落ちてきたりした部分もあったんですが、大きく壊れているところはなかったので、そのまま裏口駐車場まで利用者さんに付き添っていきました。避難訓練をしていた時に自力で歩ける方々は先に降りて、スタッフの介助が必要な人たちが後から行くようにしました。

 

避難時に皆さんが履いていたのは内履きのような、運動靴のようなものですかね?

そうですね。

 

ガラスが割れたことはなかったですかね。

そうですね、ガラスが割れたことはなかったですね。イベントをしていたスペースはあまり荷物を置いてあるスペースではなかったので、何かが倒れてきたり、ものが散乱したりすることは無かったので、それはよかったですね。

 

40名を超える人がいらした状況で、全員の避難が完了したのが何時くらいだったか覚えていらっしゃいますか?

詳細な時間は記憶していませんが、みなさんスムーズだったと思います。パニックになるような人もいなかったので。みんな怖かったと思うので、速かったですよ、普段歩く以上に。

 

当時の利用者さんの年齢は、どのくらいの方が多かったですか?

今から7年前なので、30代くらいの方が多かったですかね。50代、60代の方もいらっしゃいましたが。

 

そうすると所定ルートを通って素早く行動できたと。その後は所定の広場のようなところに集まったということでしょうかね。

そうですね。裏口から出てすぐに駐車場がありましたので、そちらに避難していましたね。

 

その後の行動はどういった感じだったでしょうか?

そのあとはですね、駐車場と言っても建物から近いところだったので、そこからも少し離れて、隣の敷地のすぐそばに個人宅があるんですけど、カーポートをお借りして、雪を凌ぎながらいました。

 

それはやはり築50年というのが頭にあって、離れた方がいいだろうという判断ですか?

そうですね。建物の方には近づかないと。利用者さんのこだわりで自分の荷物を持ってこなきゃない、靴を持ってこなきゃないっていうのがあったんですけど、「危ないからやめてくれ」っていうのでそこは制止して。あとは揺れが収まって、必要な物品、例えば毛布だとかを職員が持ってこられるものは持ってくるから、みんなはここで待っててね、という形で職員が建物内に取りに行っていましたね。

 

近隣住民の方も避難していたと思うんですが、様子はいかがでしたか?

そうですね、みなさん外には出ていらしたと思いますが、一時避難で外に出たときはそれほど多くはいらっしゃらなかったですね。

 

そこから次はどうされましたか?

駐車場に出た段階で、各家庭への連絡をしてみましたが、回線がパンクしていてほとんどつながりませんでした。で、「災害伝言ダイヤル」の練習をこぶしでしていたので、そちらに伝言入力もしてみましたが、そちらもだめでした。実際にはどこにもつながらない状態でした。あとは16時くらいに、近くの長町小学校に避難しました。雪も降ってきて寒かったので。移動するときに、建物の裏側の入り口に「長町小学校に避難しています」の張り紙を残して、移動しました。

 

父兄の方々は、張り紙を見て長町小に迎えに来られた方もいましたか?

いらっしゃいましたね。長町小に行った時も人はもうすごく集まっていて、体育館も人でごった返していました。実際に利用者さんと行ってはみたけど「この中には入れないだろう」というので、スタッフの方に「障害のある方と避難してきたんですが、まとまって入れる場所はありませんか?」と相談をして、図工室の方に通してもらいました。

 

いろいろな事業所さんの取材の中で、「部屋の確保」を交渉する段階でトラブルがあったという話を聞くのですが、こぶしさんの方ではいかがでしたか?

多少の待ち時間はありましたが、トラブルはありませんでした。

 

その後長町小学校はどのくらい滞在されましたか?

一泊ですね。その間に張り紙を見て保護者の方がお迎えに来たり、たまたま連絡がついたご家庭の方に引き渡したりした事例もありました。

夜が明けてから、公用車で送迎しようということになりました。ガソリンも残っていたので。自家用車で来ている職員もいたので、方面を決めて利用者を送りながら職員も自宅に帰ることにしました。信号も付いていないところがほとんどだったので、もごすごく慎重に送っていきました。で、ご自宅に着いたものの不在で、お会いできなかった利用者さんの保護者さんもいらっしゃいました。お会いできなかった方は小学校まで戻ってきました。最終的には連絡が取れて、12日中には全員ご自宅に帰ることができました。

 

避難所で特に困ったことはありましたか?

お手洗いはみなさん気にしていましたね。水も流れないし、2日目くらいからは臭いの問題なんかもありましたね。そもそもあまりトイレに立つ方はいらっしゃいませんでしたが。

 

一般の方と同じトイレを使っていらした?

そうですね。

 

長町小学校は地域の指定避難所になっていたんですか?

はい。地域の方が避難してきていました。

 

では避難に必要な基本的な備品はそろっていたという状況でしょうか?

いえ、当日は何もなかったですよね、ただその場でお迎えを待つという感じで対応していました。

 

寒かったですよね。

事業所に毛布なんかも取りに行ったんですけど、清掃班のジャンバーとか、利用者さんの上着とか、あるものを使って暖を取っていました。体を寄せあったりもしてましたね。

停電もしていたので、不安の強い方とは手をつないだりもしていました。たまたま職員が懐中電灯を持っていたので、天井を照らしてうっすら明かりを確保することができました。

とにかく外部と連絡が取れる状況になかったので、とにかくそこに留まるしかないという状況でしたね。

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