仕事

モノ作りとさくらんぼ1

当時は仙台港界隈にある企業から作業を請けていたものの、企業の方も被災されて仕事が全部なくなっちゃって。建物はなくなるわ作業はなくなるわ、利用者さん達は無事だったけど職がなくなってしまって。

なんとか利用者さんの作業を育てていかないといけないと思い、駐車場清掃とかをやってつなぎながら、いろんな方の紹介から「モノ作り」をやってみようと、ト音記号のクリップやキーホルダーを作りはじめました。

もともとは清掃委託とかがメインでモノ作りはやってなかったんだけど、何しろ委託先も被災して再建できておらず。苦境の中ではあったけど、収入がないことはもちろん、何より作業がないのがつらいことなので、だったらモノ作りをして少しでも買ってもらえれば売り上げになって、利用者さんの工賃につながるなと。

モノ作りとさくらんぼ2

仕事があった時は忙しいって言ってたのに、なくなってからはヒマだって言う(笑)
仕事があることのありがたさを知ったというか。改めて思ったんじゃないですか、やる事がある、ということを。仕事に対しての意識も違ってきたしね。慣れてくればまた言うことも変わってきたりはするけど、それってある意味、日常に戻りつつあるっていうことで、幸せなことだと思いますよ。

震災前は休みがちだった利用者さんもモノ作りになってから休まず来るようになったりして。沢山の注文来るようになって。飽きないように日々工夫していましたね。
震災後から現在に至るまでなんとか工賃アップにつなげてきた。震災前の仕事は未だに戻ってきていないしね。本当に一からやってきたっていう思いです。ここまで取り戻せたのも支援して下さった全国の多くの皆さまの温かな支援のおかげで…単純に人の力ってすごいなって思いました。
利用者さんだって、作業服がいる。手袋がいる。みんな流されてる訳ですから。買わないといけない。だから、そういう所って大事だなって思ったんですよね。生活に直結することじゃないですか、お金って。

震災前後の仕事の変化

再開前後の仕事の変化については?

作業の変化は大幅にありました。荒浜の時は農作業がメインでした。900坪の畑で農作業をやっていましたが、津波で畑もなくなったので、手芸をメインにすることになりました。
利用者さん達もやるしかないと、すんなり受け入れてくれました。やることがあるだけで嬉しい、仕事どうこうじゃなくて、みんなで一緒に過ごせる場所でなにか一緒にやれるっていうことがまず嬉しかったんだなぁと思います。もともとみんな仲が良かったですしね。

震災後の作業の変化

 震災前は十何社かな?町内の企業さんから仕事いただく委託作業が中心でした。自主製品はなかったんですよね。
 再開してすぐは仕事としてやることがないので、とりあえず集れることへの喜びと、今目に前にあることをやろう!というような感じですよね。それで畑作業を始めたけど、慣れる慣れないとか云々よりもやるしかないっていう。
 ただ雨の日になると、プレハブ内は立ってじゃないと職員も利用者さんもいられないスペースしかなかったんですよ。
 だから、雨が降ったらどこかでかけるっていう。本来逆な感じなんですけど、そんな生活でしたね。
 集るところができて、久々に会った方々もいらっしゃったので、笑顔が出ました。毎週、週替わりでJDFの方々も来ていましたしね。
 利用者さんのご家族も仮設とかの手続きも始まってきた頃だったこともあり、日中預ける場所があるっていうのが良かったっていう声もありましたね。

紙漉き製品の始まり

私も畠山も先のこと考えた時に、畑作業は冬があるのでずっと続けられないよねって、中でできる作業的なものがなければねって話をしている中で、たまたま現場の中から紙漉きはどうですか?っていう話が出て。
その流れで、「社会福祉法人 仙台市手をつなぐ育成会」の職員さんが訪ねて来てくださった時に、紙漉きやステンシルの道具一式をもらいました。紙漉き作業を進めている時に、さらに社会奉仕団体の「世田谷ライオンズクラブ」の方とお会いして、紙漉きの機械を入れていただきました。
次の町有地のプレハブには、寒くなる前の11月に移れました。入谷地区にあったのよりちょっと大きいんですよ。雨の日も入れるようになって、エアコンとかもつけて、これで冬越せるねって感じでホッとしました。
そうやって、やれることが広がっていく中ではあったけど、最初の2年か3年は、言い方悪いんですけど、お祭り状態っていうか、自分たちも整理できないまま日々過ぎて行く感じでした。
色々なことを、自分たちで決定していくタイミングも、もちろんありました。でも、みなさんが気にかけてくださる中で、自分たちで決めたっていうよりか、来て下さった方たちが決めたことが多いんじゃないかなって思う時があるんですよね。
本当にすごい方々と出会って、タイミング良くタイムリーに支援していただいたなって思います。その時は気づかなかったわけではないんですが。
利用者さんも同じく、私とか畠山を介して、いろんな方々が来て、気づいたら紙漉きの機械が入っているとかそういう感じだったと思います。モチベーション高くやっていたというよりか半ば強制的な感じで、やるぞ!って勢いよくやっていたというか。日々変化していく中で順応していくという感じだったと思います。
あと、最初いただいたステンシルの道具は誰がやっても同じくできるっていうものではなかったんですよ。マヒのある方は、押さえが必要で。そういうツールに関しては、自分たちで考えたりして、やり方を見てる中で工夫をしてました。
そういうこともあり、震災前に家の農作業のお手伝いするために休んだりしていた方が、震災後、紙漉きが始まっていろんなことが忙しくなると、お家の事情でお休みするのは全然問題ないのに、本人がすごいやる気になってくれて、「俺が休んだら仕事回らない」って自信を持ってやってくれていました。誇りを持ってやってくれてるんだなって思いました。

わかめの芯抜き

地域の情報誌をきっかけに、人手不足に悩んでいたわかめ業者さんから声がかかったんです。

かよ子さん:でもね、(震災の影響で)何も作業が無い中で救われたのが(事業所がある建物の)館内の掃除を委託してくれた業者さんが、みなさんががんばって仕事をしている姿を見て、ほんとに必要以上な報酬で委託してくれたんですよ。

それはいつ頃のお話ですか?

かよ子さん:震災後平成24年度でした。
私たちもどうにかしなきゃいけないと。それで利用者さんに「ちょっと皆さん若いときなにやってきたの」って聞いてみたんです。
そしたら、わかめの芯抜きやったことありますっていう話になって。たまたま知り合いの方が、ボランティアで地域の広報誌やってたんです。それで、このくらいの枠でいいから、「くじらのしっぽ、わかめの芯抜き作業できます。ご相談ください。」って、記事に載せてもらったんです。

多田さん:そうしたら、(連絡が)来たんですよ。そこから紹介してもらって「体験してみる?」って言ってくださったんです。自分が、実際に体験しに行かせてもらいました。

かよ子さん:わかめ業者さんも再建したけども、働き手がいなくなったそうです。それで、なんかいい具合にマッチングしました。ただ、私たちには条件があって、その現場までは行けませんよって言ったら、わざわざここ(事業所)の作業場まで、わかめを持ってきてくださったんです。そして、出来ましたって連絡すると、とりにきてくださるんです。そこから、毎年この作業場でわかめの芯抜き作業してるんです。

かよ子さん:この震災は大変だったんですけれども、得るものも多かったですし、考え方が変わりました。牡鹿地区は、人口の流出とかがあって、ますます高齢化してきています。わかめの話で言えば、我々が担い手っていうか、やんなきゃいけない。みなさんと一緒にね。

地域との繋がり

さくら学園だと、例えばレクリエーション的な交流で言うと実はそんなにないんです。どちらかというと地域の方との繋がりというのは廃品回収などの作業を通して。
今さくら学園で行っている廃品回収は、ほとんどが近隣地域なんですね。近隣地域の町内会にチラシを撒くところから始めて、「曜日の何時頃我々通るので玄関先に出しておいてくだされば持っていきます」というアナウンスをしています。塩釜も高齢化が著しく、新聞紙の束を集積所に持って行くことすらお年寄りにとっては大変なことなので、非常に喜ばれるんですね。「いつもありがとう」なんて声をかけてくれて。
我々もきちんと挨拶をして、という風に。作業に携わる利用者の皆さんにもこれだけは本当に強調してお話をさせて頂いています。しかも、お約束したから必ず行くっていうスタンスを貫いているので、行かない時には先にきちんとご連絡をする。期待を裏切らないようにやってきた結果、あの仕事は絶対減らないんです。一回出し始めれば必ず段々と量を増やしてくださったり。最初は様子を見ている方もいらっしゃいますが、一周回って10件あったとして、最初は2件しかご協力頂けなかったとしても、毎回チラシ撒いてまた回っていることで3件、4件と必ず増えていくんです。
我々がお約束したことをきちんと果たしているということについては、地域の方達がよく理解してくださっていると思うので。信頼をしてくださっていると思うので、だからたまに抜けてしまうとお叱りのお電話を頂戴したりもしますし、そういう時はすぐ対応して、関係を壊さないようにやってきました。それは職員・利用者の一人一人が努力してくれたからだということに他なりません。地域の皆様とは、仕事を通してずっと関わりがあるので認知としてはすごく上がって、「さくら学園さんと一緒の所ね」という風に法人内の施設みんな言われるんですよね。

作業の変化

震災が故に出来なくなってしまった作業もありました。これは施設外就労のグループですね。依頼を受けていた会社さんのほうも被災したので。
施設開設当時の廃品回収は、ご協力頂ける方の所を長い距離走り回ってちょっとずつ頂いてきて。震災以降は明確にシフトして町内会ごと巻き込み、それにともなってトラックを導入しました。近隣の地域の回収に特化してどんどんやっていくために、それまで開拓した所は近い事業所に全部出してしまって。そうすると、一時は量が減るのですが、案の定始めてみれば必ず増えていくので、最初は少なくなるものの何ヶ月間の中で挽回できるという。挽回できてからは小さなエリアの中を動き回るだけでトラックがいっぱいになりますよという形に変えていきました。
あと発泡スチロールの仕事が始まっていったのも震災の後なんです。一時目減りした収益をその二つの作業で埋めていきました。補って、余りがある状態にまでもってこれたかなと思いますね。
なぜ売り上げを出すかと言えば、それは利用者さん方が少しでも一生懸命働いたら沢山もらえるようにということなんですが、保障という言葉は使えなかったりするんです。ですが、できれば下げないでやってあげたいと思うし、保障はできないけど安定して売り上げることを目指してやってきました。
利用者さんは玄人肌ですよ。利用者の得意なことをしていく。あとは誰でもできるような作業をしていくことをいつも心掛けています。
いつの間にか以前と同じような雰囲気とか流れとか。作業の方も全く入れ替わった訳ではないので、失ったものもあるけれども、今までやっていたことのやり方を変えたり、発展させた形だったので、そんなに混乱もなく利用者さんもそれを受け入れてやってくれてたように感じます。
仕事をくださっている方達に助けていただきましたね。

「かなん」へ

今野さん:(震災後)一般就労していたケーキ屋で、地震で落ちたものとかを片付けたりしながらまた働いてました。その頃はもう仮設で暮らしてました。
でも、大雨が降った時に、車にぶつかる事故にあって足を痛めて…。
(その頃心身が不安定だったりして)仮設に入った時にはもう仕事は行ける状態じゃなかったんですよね…。ずっと休んで、ケーキ屋も辞めることになって。
そのとき、ここで働いてみたらって紹介されたので、「かなん」で働くことになったんですね。

柳橋さん:うちの法人の就労関係者が今野さんの相談を受ける中で、事業所さんと関わりを持てるようになりました。今野さんは災害に遭って、家庭環境が変わったことや事故に遭ったことだったり、特にご両親の事があって、仕事を休みがちなってしまいました。お仕事を続けていくのが出来なくなってしまったんです。それで以前から、就労移行(就労移行支援)で今野さんと繋がっていた職員とで相談し、しばらく落ち着くまで行ってみてはと、「かなん」を紹介したんですね。

好きな仕事

「かなん」で働くようになってどうですか?

今野さん:しいたけ栽培の仕事はおもしろいです。今は10人くらいで栽培の担当をやっています。(しいたけの菌床を岩手より仕入れ、それを1週間ほどかけて栽培し、パック詰めをして販売する)
自分は水やりと、売り物にするためのパック詰めをします。シール貼りだとか、いろんな作業をしていますね。大きくなったものをハサミで切り取ります。毎日やることがあります。

今野さんの作業についてはどうですか?

今野さん:だいぶ慣れて、出来るお仕事が増えてきました。新しく入所して来た人達にも教えたりします。

今野さんのコレカラ

今後、やってみたい仕事はありますか?

柳橋さん:もう一回、外に働きに出てみようかって話をしているんだよね。

今野さん:今後やってみたいとかはまだないんですけど…あと外に出るのは今はまだわからない。でも、ここの仕事は楽しくやりがいを持ってやってます。

震災を経験して思うことはありますか?

今野さん:やはりもう、地震はこれ以上来ないでほしいなと思います。これ以上、家族を失ったら、どうやって生きていられるのかよくわからなくて。兄弟が大好きなので、これからも仲良くやっていきたいです。(今野さんは、震災でお父さんとお母さんを亡くされた)

震災前後での生活の変化

小山さんの生活で、震災前と震災後で変わったことは何ですか?

震災前は、見えにくくて聞こえにくい状況でも普通に家族と一緒に生活できていたものが、震災後は自宅だけでなく、見えにくくても感覚で動けていた地域環境そのものを失い本当に動けなくなったというのが一番大きかったです。避難所を出た後も1年くらいは新しい環境で動けなくて。

その後、このままではよくないと思って、インターネットで「視覚障害者と仕事」というキーワードを検索してみました。当時はまだ携帯電話の画面も見えていたんです。すると、仙台市中途視覚障害者支援センターが最初に出てきました。私が学生時代、仙台に4年間住んでいた所の近くだったので、行ってみることにしたんです。そこでは、現在の視力ならば障害者手帳の等級がもっと上がること、白杖の申請もできることなど、たくさんのことを教えてもらいました。

その後、白杖歩行訓練も、パソコンの職業訓練も受けましたし、それで点字訓練も行くようになりました。点字訓練に通うようになってからは視覚障害の仲間の情報が直接入るようになりました。

宮城県視覚障害者情報センターからは視覚障害者に関する情報をどんどん紹介してもらったり、直接当事者からも話を聞いたりすることができました。情報が自分に入るようになったのが大きくて、少しずつ前に進むための気持ちの面も含めて、先のことも考えながら、今やることとか、必要なものを考えたりできるようになりました。これは大きかったですね。

それから、点字訓練に半年くらい通いましたが、私の場合は難聴で、視覚障害者は耳が聞こえますので、視覚障害者の方と同じ場では、話のスピードについていけなかったり、話している内容がわからなかったりするんですね。当時は補聴器もしていなくて、今よりもかなり聞き取りが悪く、情報が入りにくかったんです。そのため、断片的に入る聞き取れている単語で聞き取れているフリをしたこともありました。

それで、宮城にも目と耳の両方が不自由な盲ろう者がいて、「みやぎ盲ろう児・者友の会」(以下:「友の会」)という当事者団体があるということを視覚障害者情報センターの職員から紹介してもらいました。自分は盲ろう者なんだなとその時初めてわかりました。交流会に参加してみたら、盲ろう者を支援する通訳介助員さんが私についてくれました。音声通訳だったんですが、それを受けることで今までどれだけ聞こえていなかったか、情報が入っていなかったかを感じました。その音声通訳のありがたさと、快適さとそれによってずいぶん明るくなったというか。

他にも盲導犬の体験もしました。盲導犬は私は使ってないですけど、それでもいろんな情報が繋がっていきました。あと、盲ろうの仲間とも出逢い、自分が聞こえていなくても、見えていなくても、コミュニケーション方法はいくつもあるということを知りました。

たとえば、同じ難聴という障害でも、補聴器を使用し、静かな場所で近くの会話ならできる盲ろう者もいれば、音としては入るけれど言葉としては聞き取れない人もいます。それで、指文字が使える盲ろう者と何とか直接、コミュニケーションがとりたいと思い、まずは指文字五十音を覚えました。「おはようございます(実際に指文字で示して)」とこれくらいの速さで伝えられるようになって。手話も少し、単語を少しずつ覚えています。あとは指点字というコミュニケーション方法も習いました。今も練習しています。いろんなコミュニケーション方法を知り、同じ盲ろうの障害がある仲間がいることも知り、一緒に活動をするようになって、今その活動を主体として私も社会に参加できていますし、ゆくゆくは自立をして、自立といっても一人でできること、できないことがあるので、社会や仲間、地域、いろんな繋がりのある方との支援も協力も得ながら生活していけるように、いろいろ考えながら活動を続けています。

 

震災がきっかけですごく生活が変わったんですね。

変わりました。生活環境は二転三転しているので、「新しい家に入って良かったね」と言われることもありますが、私は困っていることもあるんです。環境認知はまた0からのスタートなので大変です。それでも、「友の会」の活動を通して、盲ろうになって動けなくなっていた自分が、研修会で学ぶ場所があって東京に行ったり、全国大会では神戸や静岡にも行ったりすることができています。少し前なら有り得ないと思うようなことができているんです。全国の仲間、支援者の方と出会って、今交流ができていたり、情報交換したり。県外からも講師に呼ばれることがあったので、ものすごく自分の世界が広がりました。外に出て情報を一つ得たことがきっかけで繋がっていったんです。視覚障害者は情報障害とも言われます、もちろん盲ろう者もそうですが。あれもこれもなんでできないんだ?とか、マイナス思考になるだけではなくて、私は何か具体的に解決方法やできること、できないことを考え、説明できるようになっていきたいです。こういう風に考えられるようになったのも「友の会」の活動や、いろんな方のおかげですね。

 

普段、地域で盲ろう者など障害のある方を見かけた時、困っていそうな時、どのように声をかけたり、支援をしたらいいのでしょうか?

視覚障害者や盲ろう者はいきなり声をかけられるとびっくりします。なので、静かにポンポンと肩をたたいてから、声をかけていただきたいです。それから、「私はこういう者ですが、今お困りですか?何かお手伝いは必要ですか?」とか言っていただけるとよいと思います。相手の状況を把握してからしてほしいことをサポートしてあげるというのが一番よいかなと思います。盲ろう者は耳も不自由なので、コミュニケーション方法の確認も必要です。盲ろう者については社会的な周知というか理解というか、まだまだできていないと感じていて、私もその周知や啓発のために活動しています。あとは情報保障の手段も音声、接近手話、触手話、筆記、手のひら書き、指点字など、いろいろあります。通訳・介助の支援を受けてわかったことですが、状況説明と言って、今、〇〇さんがこんな表情をしていますとか、ここにこういうものがあってどんな状況ですなど、こういったことを伝えてもらうだけでも、盲ろう者もみなさんと同じように考えて動ける場合もあります。

 

最後に視覚障害の方について知ってほしいこと、お知らせしたいことはありますか?  

一概に視覚障害者といっても情報にも環境にも地域格差や個人差が大きいと感じています。住んでいる地域によって、公共交通機関にも差がありますし。また視覚障害単独の方であれば、音声による情報保障がいろいろあります。私は使えないのですが、スマートフォンやタブレット端末を音声だけで自由に使いこなしている方もたくさんいます。ですが、そういう方法も知らない方もたくさんいらっしゃいます。反対に、そういった情報にたどりついても必要性を感じない人もいるとは思いますが。あと点字についても、「視覚障害者イコール点字ができる人」と思っている方もたくさんいると思うのですが、点字ユーザーは視覚障害者のうち1割程度です。同じように「聴覚障害者イコール手話」と思われがちですけど、手話ができる人は聴覚障害者全体の1割から2割程度です。

 

そうなんですか?思っていたより少ないんですね。

それから、白杖を持っていれば視覚障害だと認識できると思うのですが、その時の声のかけ方、サポートの仕方など、そういったことも含めて視覚障害者が必要とすることを知っていただきたいです。様々な専門機関がたくさんあるので、連携しながら広く情報を出し合って、視覚障害者、聴覚障害者、盲ろう者への理解、周知をお願いしたいですね。必要な時に必要な支援を受けられるようになるといいなと思います。

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