備え

防災に対する意識

 勉強の1つとして災害ボランティアコーディネーターの講習を受けていました。災害が発生した時に避難所で、ボランティアを受け入れるコーディネーター。コーディネーターは、災害に関しての知識や起こりうるニーズ・避難所運営を知っていないと難しい。受け入れ窓口や避難所等の運営方法とかをロールプレイングして学びました。
 例えば、資機材など何もない状況から、被災した家屋や在る物で救助や活動に必要なものを使って、どういう風にこの状況を打開していくか、いかに運営していくか等、学びます。もともと、防災に関して興味があって、数年いろいろ勉強してました。
 その学びを震災前から利用者さんに常々伝えていました。そういう蓄積もあり利用者さん自身も、今野が勉強してるから大丈夫だっていう安心があったと思います。
 だから、あの時も「今野さん次はなにすればいい?」とよく聞かれました。
 本当に勉強していてよかったと実感しています。勉強し備えていた防災用品や家具の固定を徹底していたので、物も一切倒れなかったし、怪我する人もいなかったです。
 あの時、誰か一人でも怪我をしていたら、救護する時間で避難が遅れ、津波にのまれていたと思います。また、無事だった人は先に避難させたりすると、何班かに分かれますよね。今回誰一人怪我をすることなく避難できた初動も良かったと思います。備えや学びが生かされた面がありました。

その勉強を始めたきっかけは?

 何年も前からずっと宮城県沖地震が起きるというのは周知のことで、もともと、個人的に防災に対する興味があって勉強していました。私たちの仕事は、利用者さんを守らなきゃいけないですし、いつの間にか防災に対する備えを重ねていったんです。

経験を伝えるということ

今伝えたいことや思いはありますか?

 あの震災以降、震災経験やどんな備えをしていたか等、お話する機会があります。
 やっぱり、全国の海岸沿いにある福祉施設とか、同じように災害・津波が起きたらと不安を抱えているんです。
 この数年各地でお招きいただきお話しているのですが、果たしてそれが皆さんの防災に対する意識に届き、活かしてもらえているかなと不安に思うことがあります。
 熊本の地震が起きた時も私すごくショックで、私たちと同じようにつらい想いをしないように、私たちの震災の経験や想定して備えてきたことなどを活かしてもらえたらと伝えてきましたが、熊本やいろんな所で起きた人たちが同じ体験をしてしまい、お役に立てなかったのではと、つい思ってしまいます。
 災害発生を知るたびに、すごい悔しい想いをして、私みたいな者が伝えてどうにかなる問題ではないのは分かっているのですが、そう思ってしまいます。
 風化もありますし、その各地の人達の意識的な問題のところにどういうふうに訴えかければ、今後の災害時に彼らの生活を少しでも守れたり、災害時の福祉の課題とかをより理解してもらえるのかなというのは日々思っています。
 結局、私にできることはこうして話すことしかできないんです。
 まずは、私たちが経験した災害時の現状を知ってもらうことが、それぞれの考え方の何かの気づき・一歩になってもらえればと思っています。
 やっぱり福祉施設は災害時には、一般の方とはまた違う問題も発生しますし、だからこそこういう関わっている方には特に知ってもらいたいです。なぜなら、利用者さん・スタッフ含めて本当に震災で大変な思いをしたので、全国の仲間たちに、今後災害が起きた時に同じような思いをして欲しくないからです。
 震災後、県外海沿いにある福祉施設が法人全員で工房のお話を聞きたいと来られたところもあります。その後、私たちの経験談を踏まえて、防災対策に動いたことを聞きました。
 いろいろお話させて頂いたことが、今備えとしてその福祉施設に実際に役立ててもらえていることを聞くと、何か、ほっとします。そして、利用者さんを守るために行った私たちの備えや対応をそのまま生かすのではなく、その法人さんの中で協議してアレンジしていることもとっても良いです。どういうことが起きうるか知らないということは怖いことです。

今後へ向けた備え

 あのような経験をした以上、よく千年に一度とか言われるけども、もう来ないんだとは誰も断言してはいけないだろうし。我々も経験した以上はあの時よりももっときちんと備えられたものを持って、利用者さん方を守っていくようなシステムの構築をきちんと準備しているべきでしょう。ですが実際の所はまだまだそれに対して備えきれていない部分もあります。それなりに大変な思いをしたと思っていますし、教訓にしていかなければいけないということですね。
 ただ反面、すべてのことにきちんと備えるとは一体どういうことなのかなと思ったりもします。
 さくら学園は、あれだけ海に近いと何かあった時に水を防ぐことはまずできないので、逃げるしかない。避難訓練を行う中では、年に一度は車が使えない想定で小学校まで皆で歩くというのを行っています。その時ばかりは、健脚じゃない方でもどこまで歩けるか、我々も把握しておく必要があると思っていますので。
 最初の年にはスーパーの入り口の所で疲れ果てていた方が、次の年には少し先の交差点まで行き、また次の年にはその坂の上までなんとか行けるようになり、4年かかってやっと小学校まで歩けたという方もいらっしゃいました。そうやって、どこまで歩けるかという力をきちんと計っておかないと、無理なことを言って却って事故に繋がるかもしれないので。
 どこまで備えたらいいかって本当にわからないんですけども、最低限、命を繋ぐためにどこまでは必要かっていうところは見えているので、そこについては避難訓練等で取り組んできたつもりではあります。

みんなと離れたくなかった

尚子(しょうこ)さんにとって「織音」や仲間の存在は、かけがえのないものでした。

熊井さん:私が病院に行って欲しいって言った時に、しょうこさんは行きたくなかったそうです。

尚子さん:うふふ(笑)

熊井さん:尚子さんは行きたくないって言ったのに対して、あたしは、いや行けって言いました。

尚子さん:うふふ(笑)

病院が嫌い?

熊井さん:いや、嫌いという意味ではないんです。病院に行ったら利用者のみんなと離れてしまうから、尚子さんは、「みんなとここに(事業所)居たい」と言ったんです。
今でも思います。今度なにかあったときに私は、みんなで一緒に居られるようにしたいと考えています。あの時、尚子さんに行けと言ったのは私ですから。何かあったら、みんなと一緒に居られるのが、一番安心ですから。(また災害が起きた時に備えて、自家発電できる装備を整えたそう)

柳橋さんの思い

震災の経験を通して、今思うことやこれからに向けての思いはありますか?

柳橋さん:震災を経験しては、ここは内陸ですが安心してはいけないと思っています。何かあったらどこにどう逃げようという想定の元、送迎にしても活動中にしても対応できるようにしたいと考えています。実際に、避難マップや災害対応マニュアルというものに力を入れています。利用者さんを守れる方法ってなんだろうと考えながら、そういう所に力を入れている状態ですね。
(津波の遡上で)氾濫しても1メートルも水は来ないだろうとは言われているんです。でも1メートル未満の水の中でも、利用者さんが立ってられるかというと、そうは言い切れないない所もあるので。そういう時にどうやって守っていくかというために、職員も含めての避難訓練には力を入れて行きたいと思いますね。
利用者さんの中には避難訓練する度に、未だに吐き気を催したり、パニックになったりする方はいらっしゃるんです。命があっても家族がなんともなくても、被災の状況をどこかの時点で見て、「地震だよ、火事だよ」と言われただけでビクッ!ってなってしまい、体が硬くなってしまう。当時のことを思い出しちゃう。あの時、親御さん達と離れて何日か嫌な思いをした事が思いだされるのだと思います。そういう所を少しずつ克服というか、私たちも一緒に見つめ合いながら強くなっていけるようになれたらいいなと思いますね。

備え

震災後の地震に対する備えはどうでしょうか?何か備えていらっしゃいますか?

防災リュックがあります。水とかアルファ米とか、それと保温シートと着替え用ポンチョなどが入ってます。あとは手動充電できるラジオ、ランタンもありますね。それと笛、手袋。とにかく一式ですね。

 

健常者に対して、障害を持った方の立場から備えに関してアドバイスはありますか?

物というよりも、災害前にいろんな所と繋がっておく。そうするといろんなものが見えてくる。情報の共有が大事だと思います。

 

自分からアンテナを張って情報を収集すること、できるようにしておくことが大事だということですね。

そうだと思いますよ。そこからだと思いますよ、物資とかが届くのは。

 

災害時の情報収集手段はやはりラジオですか?

そうですね。テレビより分かりやすいのかな。テレビで困るのは、テロップは我々には何の役にも立たない。ちょっとのことでも喋ってもらえると助かりますね。それと、石巻地区なら携帯も便利です。登録をしておけば、訓練とか、大雨でもどの地域が避難とか、携帯に流れてきます。市の方に登録しておくんですよ。

 

それは音声で流れる?

そうです。

 

それは震災後に設けられた機能ですか?

いえ、もっと前です。何年前かな?結構前ですよ。携帯の空メールを打ってそれで登録するんです。震災後のメールの数はすごかったですね。罹災証明書に関することとかね。

 

そういったものに登録しておくことと、常日頃から周りの人とも繋がっておくと何かあったときに困らないということですね。

そうですね。やっぱり、そうやっていれば情報は早いですよね。そういう災害以外でも。

仮設での生活

その後5月に仮設住宅に移られて困ったこと、反対に引っ越してきて良かったことはありますか。

初めは仮設ができていいかなと思いましたが、壁や屋根に断熱効果が無かったので、夏は暑いし冬は寒いしでそれが一番大変でした。また、近隣の人たちとコミュニケーションが取れなかったのが困りました。閖上に居た時は、周りの健常者の方が私達とのコミュニケーション方法はこれ、という風に覚えていてくれていたので、簡単な身振り手振りや筆談でコミュニケーションが取れたけれど、仮設住宅ではそういったことがなかなかうまくいかなかったですね。

あとは、当時は色々な役所での手続きをする際に、手話通訳者もいなかったので細かい書類の書き方が把握できずに大変でした。でも3か月が過ぎる頃になって全国からボランティア通訳の方が仮設住宅に来てくれたのでとても感謝しています。

 

震災に遭って災害に対しての備えはどうしていますか。

過去に津波などの経験が何回かあれば防災準備もしていたと思いましたが…。今は海から離れているので安心はしていますが、防災準備はしています。

意識の変化

震災前は地震に対する備えはしていたのでしょうか?

特別な備えはありませんでした。防災グッズはローソクと懐中電灯だけでした。震災後はラジオを準備しました。車のラジオは携帯できないので、携帯ラジオと電池、それと利用者さんの電話番号など連絡先が分かるリストを各送迎車に積みました。それと携帯電話の充電器ですね。

 

震災の前と後では心境的変化はありましたか?

利用者さんのご家族はあったと思います。一瞬にして奪われる命を目の当たりにし、自分がいなくなったらこの子はどうなるんだろう?と具体的に考えるようになったようです。兄弟でもいればいいんですが、必ずしも皆そうではない。そうなったときに誰が面倒を見るのだろう?と。ですので、子供名義の貯金をされる方だったり、区分認定を貰って入所施設に入れるようにと、いまから短期入所の訓練をされる方だったり。とにかく自分がいなくなった時の事を現実的に考えるようになったようです。

 

最後に健常の方々に知ってほしいこと、訴えたいことはありますか?

いま、ひまわりではパンやクッキーを作ってますが、これは人と繋がる為のツールだと思っているんです。物を売ることで声をかける、障害を持ったひまわりの子たちが笑顔で配達をする、それを見て障害を持っていてもこんなに明るく笑えるんだということを知っていただく。職員も家族もだれもいなくなった時、一度でも顔を見た方ってSOSを出しやすいと思うんですよ。知っている方を増やしていく。障害を持っていてもこの気仙沼という地域で暮らしていく基盤を作ってあげたい。それが甘い香りのするクッキーだったり、香ばしい香りのするパンだったり。そうやって美味しいものを通していろんな人とつながっていく。金銭だけでなく自分がこれから生きていく、そういう輪を広げてくれたらなと思っています。今では気仙沼市内の企業さんであったりとか、行政機関であったりとか、17か所に訪問させていただいてます。そこで、ダウン症って何?自閉症って何?ということ以前に、ひまわりの利用者さんはいつも笑っているよね、楽しそうだよねって存在を知っていただく。私はそういった活動を通して障害に対する偏見を取り除いてあげたいと思っています。こんなにも屈託なく一生懸命頑張っているんですよ、笑っているんですよってたくさんの人に知っていただくためのツールがクッキーやパンなんだと思っています。ひとりでは絶対に生きていけない方々、でも誰かの手助けが少しでもあれば輝けるんですよ。笑えるんですよ。知らないと掛けられない声も知っていれば掛けられる。

 

コミュニケーションが大事で、それが防災にもつながっていきますよね。

私は防災にはそれが一番大事だと思います。ろうそくや電気も大事ですが、人に助けてと言えること、それと何があっても安心して集まれる場所がある、それが一番防災に繋がると思います。

 

地震発生

14:46はみなさんそろそろ帰る準備をしていた頃でしょうか?

当日は行事をしていました。ボランティア感謝会といって、一年間お世話になったボランティアの方に感謝を込めてお食事会だったり、贈り物をしたりっていうところで、一室にまとまってイベントをしていました。

 

では利用者さんと職員さんと、後はボランティアさん、大勢いらしたんですか?

そうですね、結構大勢だったと思います。スタッフも含めれば45人くらいですか。

 

14:46に発災した時の皆さんの様子はどうでしたか?避難に至るまでの経過などを教えてください。

イベント自体が佳境に差し掛かっていたので、パート職員の学生アルバイトが卒業する、その贈る言葉なんかを話している時に緊急アラームが鳴り始めて。こっちとしては「なんでマナーモードにしておかないんだ!?ちゃんとしておけよ」って思ったんですが、みんなの携帯が鳴るんですよね。それで、「なんだろうこれ」ってなりました。「地震が来ます」の文字を見たときにはもう揺れ始めていましたね。地震の時にはこうしようという避難訓練もしていたし、職員にも周知していたので、ドアの近くにいた職員は脱出経路の確保っていうので、引き戸のドアだったんですけど、ドアのところまで走って行って、ドアを抑えて。他の職員は利用者さんをテーブルの下にもぐらせるようにしていました。頭を隠すように。自分も守らなければいけないんですけど、まずは利用者さん優先で。

 

避難訓練は常日頃から行っていたんですか?

そうですね、当時は年間6回くらいやっていました。

 

2か月に1回くらいですか!?では素早い対応ができたんですね。

そうですね。

 

そのくらいの頻度で訓練をしていたら、利用者さんもそれほど慌てる様子はなかったですか?

そうですね、すごく長い時間揺れていたので、利用者さん自身も「これはただ事じゃない」っていうのを感じたかと思うので。そのぶん職員がすごく声をかけて「頭低くして!」「隠れて」「大丈夫だよ」って声をかけながら、収まるまで待っているというところでしたね。

僕なんかも地震って当時はあんまり怖くないと思っているところがあったんですが、ずいぶん長い間揺れていたので「さすがにこれはやばいんじゃないか」って思い始めましたね。建物が築50年、こぶし自体は1階に位置していたんですけど、2階から上は10何階建ての公営団地になってたんですよね。もともと地震なんかが起きたら建物的にはちょっと危ないかもしれないと言われていたところなんです。そんな話を思い出しながら「大丈夫かな」と不安になりながらも利用者さんに声をかけながら対応していたって感じでしたね。

 

避難訓練が年6回という話でしたが、内容は地震を想定した訓練でしたか?

地震と火災と総合訓練ですね。地震3回、火災3回みたいにやっていました。

日頃からの備え

順番が前後しますが、地震の直後に感じた脅威というか、心配事はどのようなものでしたか?

連絡が取れないっていうのが、一番困ったことでしたね。たまたまご家族に大きな被害がなく、翌日には全員引き渡しができましたが、もしかしたら、建物が倒壊したり怪我されたり、最悪お亡くなりになったりとか、後から思うとすごくそういうこともあり得る状況で、そうなったときに連絡取れない、でも利用者さんは一緒にいるっていうので、そこから先の対応というので考える部分はありましたね。とにかく一緒にいるしかないとは思うんですけど。情報が入ってこない、連絡が取れない恐怖っていうのはありましたね。

 

当時の情報取得手段というと、携帯とラジオですかね。

そうですね、ただ携帯電話は連絡用で使っていたため、充電も切れちゃって、充電する手段もなくなって、近くの公衆電話も長蛇の列でした。

 

それ以外のがけ崩れや道路の陥没、火災とか、そういった心配はありませんでしたか?

そうですね、そういったものはあまり考えなかったという感じですかね。まぁ、どこがどうなっているか本当に情報として何もわからなかったので。行き当たりばったりじゃないですけど、自分たちが自宅に帰る時も、その場で判断してルートや対応を決めて。

本部を立てて、対応や情報を収集して時系列で対応したことを書いていったりはしていたんですけど、結局スタッフがちりぢりになっちゃうと携帯もつながらないんで、そこでのやり取りはその場での判断になる部分も多くあったので、すごく責任を感じるという、そういう怖さもありましたね。

 

誰しもあんな災害初めてですから、やることなすこと全部初めてですからね。でも避難に関しては、訓練の成果が出たというところですかね。

そうですね。

 

法人全体として、避難訓練は年6回というのが定められているんですか?

各施設によって違いますね。年3回のところもあれば6回のところもあって。

 

当時の施設長さんが防災意識の高い方だったとか?

後は施設の状況や利用者の障害の程度に合わせてという感じで。防火管理者を設けて、避難訓練の計画を立てて…という決まりもあるので、それに則って計画を立てたんだと思います。

 

こぶしさんで防災グッズなどの備えはありましたか?

地震に備えてということで、防災ずきんはありました。避難訓練の時にはそれをかぶって避難するということをしていました。さすがにかぶってから避難とまではいきませんでしたが、駐車場に移動する前に職員が全員分の防災ずきんを持って、みなさんにかぶっていただいていました。あとはラジオだとか、必要になるものは、避難訓練の時に持ち出すものだとかもあったので、それに沿ってということですね。

 

利用者さんがパニックになるということもよく聞きましたが、割と皆さん冷静だったんですね。避難訓練は今も2カ月に1回くらいのペースで続いていますか?

今は年に3回ですね。火災・地震・総合と1回ずつやっています。

 

現在も乾パンやタオルのような備えはありますか?

備蓄品という形で、備蓄水やアルファ米、ガスコンロ・ガスボンベなど、一通りそろっています。あとは、電力の問題があるので、ソーラーでの蓄電ができるシステムを入れました。全館分を賄うことはできないけど、事務室コンセント分とか、照明分とか、最低限の電力を確保している感じです。3日間はそれで一部分だけでも稼働できる体制になっています。

 

震災時に備えていたものの中で、これのおかげで助かったというものはなんでしょうか?

防寒のためのものが役立ちましたね。まさかあんなに雪が降るとは思わなかったんですけど、でもいつ起きるかわからないと思うと、準備がいりますね。食べ物は緊張で意外と空腹にならなかったし、ある程度は我慢もできるので。寒さはそうはいきませんからね。

 

今まで2年近く取材をしてきた中で、ここまで事前に準備ができていたパターンはなかったですね。当時の記録がきちんとまとまっているというのは、ほとんど見たことがないですね。

こちらには備蓄品のリストなどもあります。

 

これらのリストや対応記録などは、のちに職員さんで振り返ってまとめたんですか?

本部にまとめて報告を上げなければいけなかったので、当時の施設長や主任が情報をまとめました。当時の職員が研修事業としてまとめた資料もありますので、ご覧ください。

避難が完了して、以前の事業所が使えなくなったので、拠点を転々としながら、1か月は利用者さんに自宅待機をしてもらってその間に活動できる拠点を調整した記録なんかも載っていると思います。市民センターやコミュニティセンター、仙台市にも掛け合って、そこで許可いただいた場所に集まって日中活動できる場所を開けましょうというところで各ご家庭にもサービス再開のお知らせなどをしていました。仮の場所なので、数か月後には立ち退かないといけないところもあって、その間に八木山市民センターをお借りして、そこを改築してそこに1年半くらい。そして、その間に今の場所の用地を仙台市からお借りして、建物を建てて、こちらに引っ越して、という状況でした。久しぶりにこれを見ると…懐かしいな(笑)

 

資料の中に「BCPの策定」というのが見えたんですが、こちらも震災前からやってらしたんですか?

いや、これは震災後ですね。事業継続計画ということで、震災もあって、ここを休所なく利用していただくためにということと、福祉避難所としても他の地域の方を受け入れてっていうケースもあるので、そこも含めてできるようにっていうので各施設でやっているところですね。現在の常務理事にこれらの内容に明るい者がおりまして、施設ごとに準備をしています。

 

もし今後同じようなことがあった際に、これは必要だと思うものはありますか?

一番はやはり通信だったので、震災時でもつながる手段は強化しておいた方がいいと思いますね。また、何をするにも電力が必要になるので、そちらの準備も。あとすごく困ったのは、ガソリンとかですよね。電力・燃料というのすごく困ったので。例えばガソリンとかも、ストックしておけるものがあって、震災時にも優先して受けられるものを法人として契約しているガソリン業者もあります。

 

それは震災などをにらんでの準備ということですね。

そうですね。

 

それはBCPに入っているんですか。

いや、これは周辺環境・周辺地域の資源のピックアップといったところでしょうかね。

後は、張り紙をして掲示をしたもの、それに気づかない、分からないということがあったので、必ずここをチェックしてくださいというようなものの周知を徹底していく必要があると思いますね。あと、こぶしでやっているのが、震災時の対応の時にここで基本的に待つか、ご家庭が迎えに来るか、迎えに来るが難しいので、こぶしの体制が整えばご自宅に送ってほしいか、各ご家庭と確認をしていて、同じ書面をご家庭とこぶしで一部ずつ保管して、基本的には何か大災害があったときに書面をもとに行動を決めるという風にはしています。毎年の面談時に、内容の更新確認をしています。

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