協力

災害弱者と福祉の現場2

 車椅子って一人一台しか押せないじゃないですか。利用者さん10人いたとして職員体制も10対10ならいいんですけど人手は足りてない。

 そういうことって言われればわかるんだけど、福祉に携わっていない人たちにもあの時福祉の現場のあちこちで起こっていたことを掘り起こして、知ってもらいたい。

周囲の方々と利用者さんの関わり方

避難所生活で、良かった点、助かった点はありましたか?

 利用者さんがとっても立派でした。どうしても、一般の方の感覚だと、障害者は弱い立場だっていう風に平時から思ってる節が残念ながらあるかと思います。
 ご本人さんたちも、病気があって生きづらさもあることから、ちょっとこう、身を引いてしまうところがあるんですけど。
 あの時は、たぶん誰もが自分も何かやらなきゃいけないなっていう状況を感じていたと思います。
荒浜に「潮音荘」という老人ホームがあり、そこの入居者さんも避難されていて、工房の利用者さんは、その方たちの2階に昇る避難介助もして下さいました。
 守られると人って弱くなっちゃうことってあると思います。動ける人は動く。避難所では高齢者が多かったので、利用者さんは歩くのが大変な高齢者のために校舎4階まで食事を運んだり、お掃除をしたりしていました。
 あと、グランドで自主的に皆さん火起こしをしていました。赤ちゃんのミルクの為にお湯を沸かすなど。そういった薪割りや火起こしに利用者さんは一緒に行きました。本当に工房の利用者さんはとても立派でした。
 私たちもだけど、気持ちが落ち込んだ時など、ネガティブな考えに行きがちだと思います。
 災害時のような状況では自分自身動くことにより少しでも何かこう一歩変わっていくことを感じたほうがいいと思うんです。
 日中、避難所に残ってる人って、高齢者が多いんです。若い世代は避難所から朝、仕事に行っていました。
 そうすると、避難所では残った高齢者が日中手持ち無沙汰になっていることがあって、その中で私たちみたいな福祉事業所だと、利用者さんも若い人もいっぱいいますよね。力仕事だけではなく、若い人がやれる役割・仕事って色々あるんですよ。
 例えば、おじいちゃんたちは携帯電話、普段そんなに使わない。でもこういう災害時だと連絡を取るために使わざるを得なくなります。携帯電話の扱いが苦手な高齢者に、利用者さんは使い方を教えるなど、自分の出来得ることをしてくれました。
 普段なら何ていう事ないかもしれないけど、災害時家族の安否確認や連絡を取るためには、こういったサポートは助かります。
 「どうやるんだべ」「うちの娘っこの連絡先どこに入ってんだ」って質問があったり。携帯の電話帳の開き方を教えたり。電話かかってきてもどこを押せば良いか分かんない。そこを身近にいる私たちが一緒に教えました。ほんとに年配の方には助かったみたいです。
 こういう何気ない生活のことは、一般のボランティアや運営で精一杯の学校の先生方にはできないことだと思います。やっぱり身近に毎日同じ部屋で、生活しているからこそお手伝いできることですね。

私有地での再開とJDFとの関わり

 再開前の5月の連休明けくらいにJDF(日本障害フォーラム)の存在を知りました。障害を持つ方たちのお手伝いしたいっていう方々でした。その方々には、5月末の入谷地区の私有地にプレハブを設置しての再開の際には、最初は自分たちと一緒に畑おこしをやってもらいました。
 JDFの方々はほぼ全国、北は北海道、南は沖縄の方まで来ていただいてましたね。
 全国地図を作ったんですよ、来てくれた県を埋めていくような。後々支援に来た方々にお礼をしたいなって思いまして。「のぞみ」の元気な様子を伝えたいなって、広報誌とかを送りました。

夢中になってがんばってくれました

極限状態の中、(利用者さん)みんながそれぞれの役割を担ってくれていたのです。

職員さんが、避難所運営に携わってるのを見てて、やらなきゃって思いだったのですか?

小川さん:うーん。

かよ子さん:たぶんね、考える間もなかったと思います。私たち(職員)は、(障害が)重度の利用者さんも抱えていて、まず、そっちを守んなきゃいけなかったんです。自分の家族の安否もわからないし、肢体不自由の利用者さん、車椅子の利用者さんのご家族もどうなってるかもわかんない。そういう中で、小川さんとか、一言二言の声がけで動いてくれる利用者さんに、手伝ってもらいました。一回で動いてくれる人たちは、私たちの話を必死に聞いてくれました。
 みんなの変わりにやらなきゃいけないぐらいの切羽詰まった状況だったと思います。重度の利用者さんたちのこともあるから、自分たちだけは迷惑かけられないっていうか、そういうことは思っていたと思います。彼女(小川さん)も地域に親御さんや兄弟もいたし、心配だったと思うんです。でもそんなことは言わず、表情ひとつ変えずに懸命にやってくれました。

避難場所での生活

 利用者さんはある意味互いに気を遣いあって、我慢をしていた方も沢山居られたと思います。
不便な生活が続くせいでちょっとピリピリするということもありましたしね。何もやることがないと悶々と内にこもってしまうので。
 そんな中、トイレの水がなかったので学校のプールからバケツリレーで水を汲み置いて、皆用を足したら流すというサイクルを、避難所の中で作り始めました。そして、そのバケツリレーに参加して身体も動かして。掃除する場所を決め、自分達のフロアの掃除を役割分担的にやらせてもらおうと思ったんです。
 避難所でもすごく配慮してくれていました。例えば要介護状態の方でなければ基本は体育館のところ、我々は体育館に一泊したあとに別の部屋の方がいいよねという風に言って頂き、教室を一つ空けて頂いて。そこに40人位大人が寝れば足の踏み場もないのだけれど、でもやはり我々としては気持ちも楽でしたよね。周りの方へ気を遣わなければならない部分が増えると我々も追い詰められてしまうので・・・それは本当にありがたいことでしたね。助かりました。

震災前後での生活の変化

小山さんの生活で、震災前と震災後で変わったことは何ですか?

震災前は、見えにくくて聞こえにくい状況でも普通に家族と一緒に生活できていたものが、震災後は自宅だけでなく、見えにくくても感覚で動けていた地域環境そのものを失い本当に動けなくなったというのが一番大きかったです。避難所を出た後も1年くらいは新しい環境で動けなくて。

その後、このままではよくないと思って、インターネットで「視覚障害者と仕事」というキーワードを検索してみました。当時はまだ携帯電話の画面も見えていたんです。すると、仙台市中途視覚障害者支援センターが最初に出てきました。私が学生時代、仙台に4年間住んでいた所の近くだったので、行ってみることにしたんです。そこでは、現在の視力ならば障害者手帳の等級がもっと上がること、白杖の申請もできることなど、たくさんのことを教えてもらいました。

その後、白杖歩行訓練も、パソコンの職業訓練も受けましたし、それで点字訓練も行くようになりました。点字訓練に通うようになってからは視覚障害の仲間の情報が直接入るようになりました。

宮城県視覚障害者情報センターからは視覚障害者に関する情報をどんどん紹介してもらったり、直接当事者からも話を聞いたりすることができました。情報が自分に入るようになったのが大きくて、少しずつ前に進むための気持ちの面も含めて、先のことも考えながら、今やることとか、必要なものを考えたりできるようになりました。これは大きかったですね。

それから、点字訓練に半年くらい通いましたが、私の場合は難聴で、視覚障害者は耳が聞こえますので、視覚障害者の方と同じ場では、話のスピードについていけなかったり、話している内容がわからなかったりするんですね。当時は補聴器もしていなくて、今よりもかなり聞き取りが悪く、情報が入りにくかったんです。そのため、断片的に入る聞き取れている単語で聞き取れているフリをしたこともありました。

それで、宮城にも目と耳の両方が不自由な盲ろう者がいて、「みやぎ盲ろう児・者友の会」(以下:「友の会」)という当事者団体があるということを視覚障害者情報センターの職員から紹介してもらいました。自分は盲ろう者なんだなとその時初めてわかりました。交流会に参加してみたら、盲ろう者を支援する通訳介助員さんが私についてくれました。音声通訳だったんですが、それを受けることで今までどれだけ聞こえていなかったか、情報が入っていなかったかを感じました。その音声通訳のありがたさと、快適さとそれによってずいぶん明るくなったというか。

他にも盲導犬の体験もしました。盲導犬は私は使ってないですけど、それでもいろんな情報が繋がっていきました。あと、盲ろうの仲間とも出逢い、自分が聞こえていなくても、見えていなくても、コミュニケーション方法はいくつもあるということを知りました。

たとえば、同じ難聴という障害でも、補聴器を使用し、静かな場所で近くの会話ならできる盲ろう者もいれば、音としては入るけれど言葉としては聞き取れない人もいます。それで、指文字が使える盲ろう者と何とか直接、コミュニケーションがとりたいと思い、まずは指文字五十音を覚えました。「おはようございます(実際に指文字で示して)」とこれくらいの速さで伝えられるようになって。手話も少し、単語を少しずつ覚えています。あとは指点字というコミュニケーション方法も習いました。今も練習しています。いろんなコミュニケーション方法を知り、同じ盲ろうの障害がある仲間がいることも知り、一緒に活動をするようになって、今その活動を主体として私も社会に参加できていますし、ゆくゆくは自立をして、自立といっても一人でできること、できないことがあるので、社会や仲間、地域、いろんな繋がりのある方との支援も協力も得ながら生活していけるように、いろいろ考えながら活動を続けています。

 

震災がきっかけですごく生活が変わったんですね。

変わりました。生活環境は二転三転しているので、「新しい家に入って良かったね」と言われることもありますが、私は困っていることもあるんです。環境認知はまた0からのスタートなので大変です。それでも、「友の会」の活動を通して、盲ろうになって動けなくなっていた自分が、研修会で学ぶ場所があって東京に行ったり、全国大会では神戸や静岡にも行ったりすることができています。少し前なら有り得ないと思うようなことができているんです。全国の仲間、支援者の方と出会って、今交流ができていたり、情報交換したり。県外からも講師に呼ばれることがあったので、ものすごく自分の世界が広がりました。外に出て情報を一つ得たことがきっかけで繋がっていったんです。視覚障害者は情報障害とも言われます、もちろん盲ろう者もそうですが。あれもこれもなんでできないんだ?とか、マイナス思考になるだけではなくて、私は何か具体的に解決方法やできること、できないことを考え、説明できるようになっていきたいです。こういう風に考えられるようになったのも「友の会」の活動や、いろんな方のおかげですね。

 

普段、地域で盲ろう者など障害のある方を見かけた時、困っていそうな時、どのように声をかけたり、支援をしたらいいのでしょうか?

視覚障害者や盲ろう者はいきなり声をかけられるとびっくりします。なので、静かにポンポンと肩をたたいてから、声をかけていただきたいです。それから、「私はこういう者ですが、今お困りですか?何かお手伝いは必要ですか?」とか言っていただけるとよいと思います。相手の状況を把握してからしてほしいことをサポートしてあげるというのが一番よいかなと思います。盲ろう者は耳も不自由なので、コミュニケーション方法の確認も必要です。盲ろう者については社会的な周知というか理解というか、まだまだできていないと感じていて、私もその周知や啓発のために活動しています。あとは情報保障の手段も音声、接近手話、触手話、筆記、手のひら書き、指点字など、いろいろあります。通訳・介助の支援を受けてわかったことですが、状況説明と言って、今、〇〇さんがこんな表情をしていますとか、ここにこういうものがあってどんな状況ですなど、こういったことを伝えてもらうだけでも、盲ろう者もみなさんと同じように考えて動ける場合もあります。

 

最後に視覚障害の方について知ってほしいこと、お知らせしたいことはありますか?  

一概に視覚障害者といっても情報にも環境にも地域格差や個人差が大きいと感じています。住んでいる地域によって、公共交通機関にも差がありますし。また視覚障害単独の方であれば、音声による情報保障がいろいろあります。私は使えないのですが、スマートフォンやタブレット端末を音声だけで自由に使いこなしている方もたくさんいます。ですが、そういう方法も知らない方もたくさんいらっしゃいます。反対に、そういった情報にたどりついても必要性を感じない人もいるとは思いますが。あと点字についても、「視覚障害者イコール点字ができる人」と思っている方もたくさんいると思うのですが、点字ユーザーは視覚障害者のうち1割程度です。同じように「聴覚障害者イコール手話」と思われがちですけど、手話ができる人は聴覚障害者全体の1割から2割程度です。

 

そうなんですか?思っていたより少ないんですね。

それから、白杖を持っていれば視覚障害だと認識できると思うのですが、その時の声のかけ方、サポートの仕方など、そういったことも含めて視覚障害者が必要とすることを知っていただきたいです。様々な専門機関がたくさんあるので、連携しながら広く情報を出し合って、視覚障害者、聴覚障害者、盲ろう者への理解、周知をお願いしたいですね。必要な時に必要な支援を受けられるようになるといいなと思います。

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