食料

周りの方々の配慮・助かったこと

 まず初日の晩は生物室を割り振ってもらえて。先生たちとの話し合いをする場で南三陸町社会福祉協議会の方たちや「のぞみ」や老人ホームの方たちが避難しているので、各一部屋ずつ与えたほういいねってお話があり、翌日には各教室を確保してくださって。3月12日の午前中だったかな?
 助かったのは水があったこと。あとはラジオの情報を全部教えてくださって。テレビもなにもないので。
 さらに、日付変わる前くらいに、南三陸町社会福祉協議会のキーの方と学校側の配慮で、高校の北にある旭ヶ丘団地からおにぎりを分けてもらってきてくれて。それはありがたい1個でした。

避難所での困ったこと

最初に困ったのは食料です。あとは津波に飲まれて濡れているので、それで衰弱死じゃないですけど、そういうことが怖かったです。ストーブがあって、暖を取れて助かったなと思います。あれがなかったら違っていたんじゃないかな。
その他、利用者のひとりの方がトイレに行きたくなって。生物室の前が校庭で車もたくさんいて、する場所がなくて困っていて、体育館の裏のほうに場所を作っていただいた記憶がありますね。
だんだん女性陣もいきたくなってきて。教室にある、机やカーテンを使って、さらに校庭の車のライト消したりしてプライバシー確保しながらトイレを作りました。でも寒かったし、普段と違って人目につくので、もよおしたのに出なかったそうです。

地域の人に配ったパン

万が一のために、作業で作っていた食パンを冷凍庫いっぱいに保管していたことが役立ちました。

かよ子さん:何かあった時のために、パン作ってたんだよね。

小川さん:はい。

かよ子さん:その日、作って終わるころに地震がきました。15時までの作業だったんです。そのパンをその日の夜から、お年寄り、子供、小学生、中学生の順から配りました。清優館に避難してきた人たちは、それをその日から食べて凌いでもらったのかな。
そして、「あの人たちから、パン貰ったんだよ。」って後から知ると、色々言って来てた人たちも、「ごめんねって。自分たち、いろんなこと言ってしまったけど。あんたたちに最初に助けられたんだって。」声を掛けられて。

普通、指定の避難所なら、アルファ米とか、水とかがあったのでしょうけどね。

安子さん:ここの、清優館は備蓄は無かったと思いますが、倉庫には毛布があり寒さはしのげました。

そのパンはどういう種類だったのですか?

かよ子さん:三斤の食パンです。百本ぐらいは(冷凍庫に)ありました。

避難場所での困ったこと

 困ったことだらけではありましたが我々だけがそれを言っても仕方がないというのもありましたし、皆それは言わずに我慢していましたね。
 むしろ振り返ると色々ご配慮頂いたことや、感謝のこととかのほうが浮かんでくる。
 ちょうど塩釜は港に近く海産物の加工場が近くに沢山あったおかげで、冷蔵庫に入っていたものを避難所の食料として出してもらえたんですよね。
 被害の程度の地域性というか、多賀城では、聞くとほんとに食料が少なくてひもじい思いをしたみたいですけど、我々はもちろん満腹という訳ではないですけど、そういう面でもすごく結果的に恵まれていたなと思います。
 ただ避難先は学校なので、いつまでも被災者が体育館に居ると学校も困る訳ですね。最終的に我々も引き上げる決断をしたことの一つに、いつごろ出て行けるかという問い合わせが入り始めた他、運営側の問題もあったんですね。
 やはり学校なので子供達のために空けなければいけないというのも当然だとも思いますし、新学期が近づいてきたりして。あの当時まだ小学校は卒業式をしていなかったですしね。そう言われればやはり、子供達の卒業式がなかったというような残念なこともないだろうから、なんとかして早く出なきゃねと。
 でも本当に助けられたことしか思い出せないので、ありがたかったなぁって思います。

あの日

愛さんは、いつものように石巻市内の「織音」に通い、調理実習でシチューを作っている時に大地震にあいました。

熊井さん:利用者さんのご家族等に、携帯で連絡していました。それでたまたま、愛ちゃんの持っていた携帯がお母さんとつながりまして、連絡を取ることができました。お母さんが愛ちゃんの無事を知って、とても喜ばれたのね。

愛さん:はい。

熊井さん:うちの(旧)施設から、愛さんのご自宅までは歩くとだいたい30分ぐらいだったと思います。揺れが落ち着いたその後、お父さんが瓦礫を越えて、愛さんを迎えに来ました。(利用者の中で)一番最初でした。
また、当日は調理実習をしていたこともあり、お米や食べかけのものを温め直しながら食べていました。そんなに食べ物に困ったわけではありませんでした。

自宅に戻って

お寺の次に、また別な所に移動されたんですか?

電気の復旧があったタイミングで、自宅に戻りました。電気が付いたときはみんなとても喜びました。

「水道はまだ2~3か月かかるみたいですよ」と言われましたが、自衛隊の方々がトラックで支援に来てくれていることも聞いたので自宅に戻りました。電気が付けば夜でもコミュニケーションが取れるので。ですが、食べ物は無い状態なので、どうしようかと娘の同級生のお母さんに相談しました。「ご飯ってどうしてるの?」とか、「給水のトラックは何時くらいに来るの?」ということを筆談で教えてもらいました。日曜日にはボランティアさんがカレーを作ってくれるのですが、最初のうち、私はそれを聞いていなかったんです。たまたま娘がその情報を聞いてきて、みんなが向かっていく場所にお鍋を持って向かいました。給水のトラックには時間を確認して並んでいましたが、自分の順番が来る前に水が無くなってしまった時には、ジェスチャーなどを交えて次の給水時間を教えてもらいました。自宅のガスがLPガスだったので使うことができましたが、水が豊富に手に入る状況ではなかったので、お風呂には入れませんでした。3月下旬くらいに岩手から友人が車で来てくれて、「一緒にお風呂に行こう。ご飯も食べに行こう」と言ってくれました。娘と3人で岩手まで行ってお風呂に入り、ご飯を美味しくいただいて戻ってくることができました。

水道はだいたい2か月後くらいにようやく復旧したっていう状況でした。そこからはお風呂にも入れるようになりましたし、ご飯も炊けるようになりました。

 

普通の生活サイクルが戻ってきたのは、ご自宅に戻ってからどれくらい経ってからですか?

仕事が無くなってしまっていたので、苦しい状態っていうのは1年、2年…。「前と同じ生活」っていうことにはならなかったですね。本当に全く変わってしまったと思います。前はそんなに深く考えなくても生活できていたのに、震災の後は買い物に行くための道路も通行止めや浸水ばかりで、本当に不安になりました。以前は手話サークルの友人と飲みに行ったりお話をしたりもできていたんですが、また地震が来るかもと思うと怖くて夜に出歩くことはできませんでした。2~3年経って久しぶりに友人と集まりましたが、前は家いっぱいあった所にも何も無くて、当時の辛い気持ちが思い出されて苦しくなってしまいました。

娘が高校に入る時に、娘とも相談をして、これから仕事をしていくことも考えて、仙台に引っ越すということを決断したんです。そうしたら娘の気持ちも落ち着いてきたようで、だいぶ元気になってきたようで、ほっとしました。娘も自分もお互いに元気になっている状態です。ここまでいろいろありましたけどね。

避難状況

どうやって避難したのですか。

慌てて兄の車に乗せられて避難しました。

気づいたら道路に30センチくらい既に水が来ているのが見えて、道路に散乱したブロックや瓦礫に乗り上げながら走りました。

海沿いや孫のいる小学校の方まで車が渋滞していて、中学校の校庭にも車がいっぱい停まっていたので、別な狭い道路を抜け高速道路の下に車を置いて高速道路によじ登って避難しました。

海の方を見たらすごい津波で船や松の木、車などものすごい数が浮いていて大人も子供もみんな流されていてとても怖かったです。

松の木が家にぶつかったりしていて、その勢いや流れがものすごい速さでした。水面の上昇もすごくて、ここも危ないと感じました。

下に停めていた車はまだ大丈夫だったので、再び兄の車に乗って高速道路の下の細い道路を逃げました。内陸部の袋原方面や名取市文化会館、増田中学校へと走りましたが、行く先々が渋滞で車等もいっぱいで停められませんでした。姪が名取市の内陸部山沿いにある愛島団地に住んでいたので最終的にそこまで逃げました。

 

そこにたどり着いたのは何時頃でしたか。

5時頃だったと思います。2時間少しくらいですね。

 

それは早かったですね。姪の住む愛島団地まで行って難を逃れたということですよね。

そうです。息子夫婦や親戚たちもみんな山沿いの愛島団地に避難してきたのでそこで再会して無事を確認することができて嬉しかったです。ここの姪宅で5日間お世話になり、その後仮設住宅に移るまでの間、仙台の中心部にあるお嫁さんの実家の青葉区西勝山で過ごしました。

 

その間生活するにあたり、お嫁さんの実家では困ったことはありましたか。ご飯などはどうしていましたか。

食べ物も少なかったし、水道、ガスも止まっていて、煮炊きはできなかったので食事は思うようには食べられませんでした。ですから、ホームセンターでおにぎりやパン、水、そういったものをもらいました。

あとは市の方から配食が所々にあり、そこからもらっていました。

停電していましたし、家屋は瓦が落ちたりしていたのでブルーシートでカバーしていました。古いお家だったのでだいぶ壊れていました。1ヶ月間お風呂も入れず体はかゆいし、洗濯も出来ず、服の支援が無かったので着の身着のままだったのが辛かったです。

 

お嫁さんの実家の仙台市西勝山周辺にある避難所や支援センター又は公民館などには移ることはしなかったのですか。

移ろうとは思いませんでした。家の方が広いので。

避難所の課題

大勢の方が避難されてきたなかで、困ったことやトラブルはありましたか?

当時は今を過ごすだけで夢中になっていましたので、意識しなかったり、よく分からないけどストレスになっていたり、いろいろあったのですが、一番困ったのはトイレです。トイレに自由に行けない。見えないですし、一人で移動はできませんし。朝8時頃出かけた家族が帰ってくる夕方5時頃までずっと我慢したこともありました。もちろん、その後見えなくても一人で移動ができるルートを確保し、避難所の近くの民家のトイレを借りたり、避難所生活の環境も少しずつ落ち着いてきてトイレにも行けるようになったのですが、1ヵ月くらいはかかったかもしれません。

 

その他にも困ったことはありましたか?

そうですね。プライベートな空間がないというのも困りました。常に誰かに見られている状態、もちろん知っている人が集まっていて、お世話になる立場でもあるんですが、何というか心理的自由がないというか。誰かに気を遣っていただいてありがたいのと、常に見られているのとで、ちょっと複雑なところがありました。なので、下の民家のトイレに行く時に、何ともいえない解放感のようなものを感じたことがありました。トイレが唯一のプライベート空間じゃないけれど、用を足さなくてもそこにこもったこともありました。

 

やはり一人になれる空間というのが必要だったということですね。

周りの視覚障害の方からも、プライベート空間は特に意識されていると聞きます。結局、自分が見えていないから、状況が分からないんです。個室であればやはり落ち着きます。かと言って、一人ではいられない。誰かの知恵や助けも必要。そのあたりの葛藤というか、複雑な思いはあります。もちろん、お手伝いして頂いたり、気配り、目配りしてお世話をして下さった方々、私はお世話になった身ですので、ありがたい、その一言につきますけど。それとは別に、やはりプライベート空間ということに関しては大変でした。それと、もう一つ困ったことがありました。

 

何でしょう?

食べ物の量のことです。支援で頂いている自衛隊のお弁当が届くようになってから、お年寄りの方々が自分の食べられる量だけ食べて、あとは残すということがちょっと心理的にできない状況だったんですね。頂いたものをこの状況で捨てるというのはできないから。無理して頑張って食べている人もいました。私でも量が多いなと思ったくらいだったんです。でも、とりあえず全部食べなければ、ゴミにもなるし、食べきってしまえば片付けやすいし。しばらく経ってから、無理して食べていたおばあさんがポロっと一言「多い」とつぶやいていて。そこで、ちょっとこれだけの量はお年寄りは食べられないなと気づきました。「気にしなくても残してもよいですよ、体にもよくないし。全然悪いことじゃないから。」と話しました。そうしたら、次の食事からは残すようになりました。最初のうちは、出されたものを大事にしなければならない、粗末にできない、そういうプレッシャーみたいなものがあったと思います。こんなことをいうと逆にみんな支援してくださってるのに何を言うんだという話になるかもしれないですが、普段は食べられる量をその人に合わせて食べている、それができないとちょっと困る。普段の生活では全く意識しないことですね。

 

食べ物の問題と聞いて、みんな足りなくて、すごく少なくて、どうやって分けようかというイメージが浮かびましたが、正反対でした。一人ひとりの食べられる食事の量は違いますからね。

普段、何気なくおいしいと思って食べているコンビニやスーパーなどのおにぎりも、避難所生活で何週間も続くと徐々にのどが通らなくなってきます。これも避難所生活ならではの体験でした。

そのような状況で、避難所に届いた食材で女性のみなさんが作ってくれた味噌汁や野菜のおひたしなど、いつもの生活にごく普通にありそうな手料理がとてもおいしかったのを覚えています。

救援物資

食料はどうしましたか?クッキーもすぐになくなったと思うのですが?

そうですね。食べるものはなくなりました。最初に救援物資を届けて下さったのは神戸の方で、気仙沼の被災状況を見てすぐに物資を積んできてくれた方で。ひまわりの看板を見つけて、人がたくさんいるのを見て、「食べ物が足らんやろ?」といってダンボール一つ分のカップラーメンなどの食べ物を届けて下さったんです。暖かい関西弁で声を掛けてくださって。その方がいうには、避難所に指定された所には食料はある、その近くには避難所に指定されず、人が集まっている所があるはずだって。阪神淡路大震災の時もそういう所の人たちが一番苦労したと。そういう所を探して物資を届けている方で、もう本当にうれしくて。そういう救援物資がなかなか手に入らないなかで、ひまわりに行けば何かあるかも知れないとみんな集まってくるんですね。その人たちに何か温かいものをと職員の家から食料を持ち寄ったり、事業所の脇を流れる川から水をくんで、プロパンガスはあったんで、それでお湯をわかして、とにかく暖かいものを提供して。クッキーを作る時に使っている天板を鉄板がわりにして調理につかったりいろいろ工夫をしました。とにかくここに集まってきた利用者さんには、また来るねと言ってもらえるようにと。

 

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