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あの日は新しい事業所への引越しの日でした

NPO法人きらら女川 きらら女川
施設長:女性/当時49歳

事業所種別
就労継続支援事業B型
事業所規模
定員20名
所在地
牡鹿郡女川町宮ケ崎川尻26番地の7
建物被害
建物全壊・流出
人的被害
利用者2名死亡(行方不明)
※施設の詳細やMAPの場所は被災時のものです。

あの日はちょうど事業所の引越しの日でした

午前中から大きな荷物を運び始め、午後からは書類などを運び込もうと荷物を抱え、新しい事業所の玄関を入ろうとした時でした。揺れがあまりに大きかった為、建物から出て車に乗り込み揺れが治まるのを待ちました。建物も車も右へ左へと大きく揺れました。利用者たちは、午前中で引っ越し作業も一段落した為そのまま帰る方もいました。2名の利用者は「午後からも大丈夫」と言って施設外就労で職員と共に働きに出かけていました。

私自身、津波に対する危機意識は非常に希薄でした

事業所が沿岸部にあり、隣の事業所の方の慌てようを目の当たりにし、避難を促していただいたことで素早く決断できたように思います。まず引越し先と同様沿岸部にあった旧事業所に向かい、その後、利用者・職員が施設外就労に出かけている企業へ行き全員に避難を促しました。しかし、企業の方や利用者・職員は地震で散らかった物を片付け始めていました。企業の方にも、「まずは避難を優先してほしい」と伝え、利用者・職員と共に高台(女川町立病院)に誘導しました。この時、社長ご夫妻は「後から追いかける」というので、他のみんなで移動を始めました。企業事務所の向かいは地区の集会所になっており、区長さんが避難場所としての段取りを始めているようにも見えました。車を走らせる車窓からは近所の人たちが落ちたブロック塀を集めたり、慌てて避難したりする様子もないように見えました。

津波に襲われ車から飛び出し、山に向かってかけられたハシゴを必死で登りました

避難の最中、利用者たちは誘導されるままに動いて下さいましたが、どんどんと不安が募り始めたように感じました。皆さんを女川町立病院まで避難誘導すると、私は残してきた社長夫妻の事が気になり、再び今来た道を戻りはじめました。しかし、途中で津波に襲われ、何一つ持つ余裕もなく車から飛び出しました。事業所の貴重品も積んでありましたが、車もろともそのまま流されてしまいました。私は、利用者・職員とは別々の場所で津波の脅威が無くなるのをじっと待つしかありませんでした。
日が暮れる頃、避難所の女川町立病院へ歩いて移動しました。そこでは利用者2名のうち、1名の姿が見えなくなっていました。その利用者は女川町立病院のすぐ下に自宅があったため、「おばあさんの様子を見に行く」と職員の制止を振り切り走り出してしまったという事でした。

避難所生活が始まりました

避難所には小さな子供もいました。利用者の1人は、この日の朝に理事長からもらったドーナツをたまたまリュックに持っており、その子供たちに分け与えました。大人として気丈にふるまい不安を一生懸命堪えているように感じました。
電話は全く使えませんでした。震災発生時一緒にいた利用者2名のうち1名は二日後に徒歩で石巻市渡波の自宅へ帰宅(家屋は半壊・家族は全員無事)もう1名は行方不明のままとなりました。私はその後約1ヶ月間避難所など、たくさんの方がたにお世話になりながら、人づてや徒歩で安否の確認に出て歩きました。
私は県外から単身赴任で女川に来ていました。連絡網が寸断されていた中、家族が東京から山形を経由し、どうやってたどり着いたのか3日目に探し出してくれました。

女川は壊滅的な状況であったために再開に2年を要しました

事業所は地域に必要なものとして設置していました。震災があったからと言ってそこに暮らす人たちが一人残らずいなくなったわけではありません。再開を目指すのは至極当たり前の事だと思っております。女川は壊滅的状況でしたが、再開するこの日をみんな待っていました。
事業を再開するに当たり一番困ったことは、やはり土地が無かったことです。いろんな情報の中から何とか土地を見つけることが出来、他方面から多大なご協力を頂き実現しました。
一番うれしかったことは再開時の利用者たちの張り切る姿を感じたことです。


※震災前活動していた場所は、地盤沈下の影響で海の中となっています


※2013年5月に撮影

震災によって変わったことは

震災による活動内容や仕事については多くの変化はいたしかたないと思っています。やり方は違えども、それまでやっていた仕事をすることが出来ています。
震災による失業や在宅からの新たな需要もあり、利用者は増加しています。震災から3年が経過しようとしている中、困難は困難として受け入れ、前に進んでいこうとする姿が見られます。みんなが大変な中に分かり合えるという、ある種の連帯感のようなものもあるのでは無いでしょうか。
また、以前は沿岸部に事業所がありましたが再開した場所は住宅地にあります。この地区は津波で集会所が流出し、未だ復旧の目途が立っていません。私たちの事業所の一部を必要な時に地区の集まりなどに使っていただく等、地域の方々との繋がりは強くなっていると感じています。


※仮設の事業所


※2013年7月25日 新しい工房が無事に完成しました

あの時、一番必要だと思ったものは「情報」です

まずは命を守るため、一番は情報をキャッチすることだと思っています。いざという時の為に携帯ラジオはいつでも聞ける状況にしていきたいと思いました。

あの時を振り返って、一番考える事は・・・

震災時の自分のとった行動は取り返しのつかないことをしたと今も心が痛みます。
利用者・職員らを避難誘導したのち、まだ避難していない人を避難させるのだと引き返してしまったことです。この私のとった行動が亡くなった利用者1名の行動のきっかけに、また悪いお手本になってしまったことです。私自身たまたま運がよく生かされましたが、津波に向かって引き返していたのですから命を落としてもおかしくありません。亡くなった利用者のこと、もし私が命を落としていたとしたならば、どれだけの人たちにさらに迷惑を掛けることになっていたか。緊急時の判断を間違ってはいけないと痛切に感じています。

今、一番伝えたいこと

この震災で多くのことを学びました。人の命ははかないもの。一人の人間の力は弱いもの。人の心は折れやすいもの。悲しみや困難に打ちひしがれた時、立ち上がりたくても立ち上がれない時、頑張りたくても頑張れない時…。それを支えてくれるのもやはり人だという事です。
この度、全国の皆様からの温かい励ましやご支援を頂き、少しずつではありますが日常を取り戻しつつあります。本当にありがとうございます。私たちはまだまだ力が不足しております。今後ともどうぞ温かい眼差しを被災地に賜ります様に重ねてお願い申し上げます。