渡辺征二さん

渡辺征二さん(男性/当時70代/聴覚障害)

地震発生

東日本大震災当日、渡辺さんはどちらで何をされていましたか。

揺れが来た時は、夫婦で名取市閖上の自宅に居ました。当時は70歳で定年退職していたので仕事はしていませんでしたので。

 

避難はどのようにされましたか。

当時は避難情報というのが全くなかったし、耳が聞こえないから自分たちだけに情報が無いのかなと思っていたけれど、近隣の健常者の人も分からない状況だったので、実際に避難するのかどうかというのも判断できていませんでした。

 

ご自宅は海からどの位の距離がありましたか。

800メートルくらいですかね。名取市閖上の日和山まで3,4分くらいのところです。

 

津波が来ることは想像していましたか。

考えてなかったです。

生まれも育ちも閖上でしたが、これまでは地震が発生しても津波はありませんでした。親からも津波の話は言われたことが無かったので今回は本当に初めてでした。地域での避難訓練や、地震に関する知識や情報などというのもなかったです。

 

そんな中、どういう状況で危ないと感じて避難しようと思ったのですか。

やはりこれまでの地震とは違って大きかったし、その後も何度も揺れが来たのでもしかしたら津波が来るかもと…。地域の住民はどうしているのか、近くの田んぼの方へ様子を見に行ったりしていました。隣の人にも避難しようよと促したのだけれど、なかなか行動する感じではなかったですね。話をしているうちにも揺れが来ていて、そのうちに近くに住んでいる兄が安否確認に来たのです。避難しているだろうと思いながら念の為と見に来てみたら、まだ私達が家に居たのでビックリしたみたいで、それで津波が来るからすぐに避難するようにと言われて。

避難状況

どうやって避難したのですか。

慌てて兄の車に乗せられて避難しました。

気づいたら道路に30センチくらい既に水が来ているのが見えて、道路に散乱したブロックや瓦礫に乗り上げながら走りました。

海沿いや孫のいる小学校の方まで車が渋滞していて、中学校の校庭にも車がいっぱい停まっていたので、別な狭い道路を抜け高速道路の下に車を置いて高速道路によじ登って避難しました。

海の方を見たらすごい津波で船や松の木、車などものすごい数が浮いていて大人も子供もみんな流されていてとても怖かったです。

松の木が家にぶつかったりしていて、その勢いや流れがものすごい速さでした。水面の上昇もすごくて、ここも危ないと感じました。

下に停めていた車はまだ大丈夫だったので、再び兄の車に乗って高速道路の下の細い道路を逃げました。内陸部の袋原方面や名取市文化会館、増田中学校へと走りましたが、行く先々が渋滞で車等もいっぱいで停められませんでした。姪が名取市の内陸部山沿いにある愛島団地に住んでいたので最終的にそこまで逃げました。

 

そこにたどり着いたのは何時頃でしたか。

5時頃だったと思います。2時間少しくらいですね。

 

それは早かったですね。姪の住む愛島団地まで行って難を逃れたということですよね。

そうです。息子夫婦や親戚たちもみんな山沿いの愛島団地に避難してきたのでそこで再会して無事を確認することができて嬉しかったです。ここの姪宅で5日間お世話になり、その後仮設住宅に移るまでの間、仙台の中心部にあるお嫁さんの実家の青葉区西勝山で過ごしました。

 

その間生活するにあたり、お嫁さんの実家では困ったことはありましたか。ご飯などはどうしていましたか。

食べ物も少なかったし、水道、ガスも止まっていて、煮炊きはできなかったので食事は思うようには食べられませんでした。ですから、ホームセンターでおにぎりやパン、水、そういったものをもらいました。

あとは市の方から配食が所々にあり、そこからもらっていました。

停電していましたし、家屋は瓦が落ちたりしていたのでブルーシートでカバーしていました。古いお家だったのでだいぶ壊れていました。1ヶ月間お風呂も入れず体はかゆいし、洗濯も出来ず、服の支援が無かったので着の身着のままだったのが辛かったです。

 

お嫁さんの実家の仙台市西勝山周辺にある避難所や支援センター又は公民館などには移ることはしなかったのですか。

移ろうとは思いませんでした。家の方が広いので。

仮設での生活

その後5月に仮設住宅に移られて困ったこと、反対に引っ越してきて良かったことはありますか。

初めは仮設ができていいかなと思いましたが、壁や屋根に断熱効果が無かったので、夏は暑いし冬は寒いしでそれが一番大変でした。また、近隣の人たちとコミュニケーションが取れなかったのが困りました。閖上に居た時は、周りの健常者の方が私達とのコミュニケーション方法はこれ、という風に覚えていてくれていたので、簡単な身振り手振りや筆談でコミュニケーションが取れたけれど、仮設住宅ではそういったことがなかなかうまくいかなかったですね。

あとは、当時は色々な役所での手続きをする際に、手話通訳者もいなかったので細かい書類の書き方が把握できずに大変でした。でも3か月が過ぎる頃になって全国からボランティア通訳の方が仮設住宅に来てくれたのでとても感謝しています。

 

震災に遭って災害に対しての備えはどうしていますか。

過去に津波などの経験が何回かあれば防災準備もしていたと思いましたが…。今は海から離れているので安心はしていますが、防災準備はしています。

震災後の心境

今はだいぶ復興も進んで風景も変わりましたが、閖上地区に戻りたいと思いますか。

来年3月でここが閉まるので、閖上に戻るか災害公営住宅に移るかどうかと、息子と相談したんですが、また地震があった時に津波が来るかもしれないし、お父さんは耳が聞こえないから心配だから閖上に戻るのはダメだと止められました。閖上は生まれ育ったところだし、慣れ親しんだところなのですが、息子から言われてやっぱりだめだなぁと思い、戻らないと決めました。今後また地震があった時に、地盤沈下とかひび割れとか、新しい家を建てても壊れてしまう心配もあるので、閖上に戻って生活するのは諦めました。

 

震災前と後で心境の変化や生きがいみたいなことで感じるものはありますか。

今も全国で地震が発生しているので、また日本のどこかで同じような地震があるかもしれないという、この先の心配はありますね。イラストを描くのが趣味なので、今回の大震災の教訓を孫に代々受け継いでもらって伝えたいと思ったので、震災の記録をイラストを交えてファイルにまとめたものを作りました。

 

このファイルはどこかで見てもらったり展示したりしたことはありますか。

大阪、徳島、東京、神戸方面などからも貸してほしいという依頼はありました。

この先、南海トラフ地震などが想定されていて心配なので、そういった時の為の備えになればいいなと思います。

健常者への要望

今後、健常者の人に対して訴えたいこととか、健常者の人たちが渡辺さんのような方々にお手伝いをしたいと思った時には、どうしたらいいか教えてください。

筆談でもいいし手に文字を書いたり、無ければ地面に書いたりと方法はたくさんあるので、いろいろな方法でコミュニケーションを取っていただけるとありがたいです。そこに表情を入れたり、身振りだけでも分かるので、そういったコミュニケーションができればとても助かります。

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