ワークショップひまわり

お話:社会福祉法人洗心会 ワークショップひまわり 支援係長 伊藤純子さん

地震発生

当時の被害状況から教えていただけますか?

当時は鹿折(ししおり)地区(漁船の共徳丸が打ち上げられた場所)に「ワークショップふれあい(以下、ふれあい)」という新しい事業所が4月1日に開設する予定だったんです。この地区にはパン屋がなかったものですから、じゃあ自分達がってことで、頑張ろうって事になって。もうあとは開店するだけという時に地震があり、津波がきました。気仙沼は火の海になったのですが、火元がふれあいの向かいのプロパンガスだったらしく、このあたりは燃え方が酷かったんです。鎮火しても熱くてすぐには近づけず、建物があった地区に入れたのはしばらくしてからでした。幸いにも利用者さんと職員に犠牲者はいなかったんですが、ご家族が亡くなった方はいました。水も電気もない状態で、心が折れかけていました。

職員の機転

伊藤さんは、被災当日はワークショップひまわり(以下、ひまわり)にいらっしゃったのですか?

はい。

 

避難の際の指揮はどなたがとったのでしょうか?

職員です。ふれあいにも利用者さんがいたので、職員が送迎車に乗せて。ひまわりは絶対に大丈夫だと思ったのでここまで帰ってきて(ひまわりは標高約29mの所にある)。でも、若い職員が多かったので、津波というものは頭になかったんです。警報だといわれてもどれくらいの高さで、命が危険だなんて想像もできなくって。ちょうどずっと海の仕事をされていた事務長さんがいて、その方がこの海は津波がくるといって。それで山側の道を通って帰ろうということになったんです。その時、海側の道から帰ってきたら、きっと送迎車は流されていたと思います。なので、いろんな年齢層の職員がいてバランスが良かったんだと思います。その方のおかげで職員、利用者全員無事にひまわりに帰ってくることができました。

 

地震の揺れはどうでしたか?

今まで経験した事のないような揺れでした。事業所内にあった机やコピー機が走る凶器となりましたね。動くというより走る。利用者さんは泣き叫ぶし、机の下に隠れてと言っても全く動けない状態でした。地震があんなに怖いものとは思ってなくて。置いてあるもの全てが凶器になる。ロッカー、コピー機、机、すべてが走る、動くんじゃなくて走るんですよね。

 

地震直後、ひまわりには利用者さん、職員さんで何名くらいいたのでしょうか?

ここには女子が12名くらい、男子はふれあいの方にいました。職員は私と所長がひまわり、あとはふれあいにいました。

 

ライフラインはいかがでしたか?

地震直後から全てストップしました。

 

情報の取得はどうやって?

車のエンジンをかけてラジオを聴きました。そこである程度の被害状況は分かりました。ですが、ガソリンを大事にしないといけないということで、あまり聞きませんでした。所内にラジオもなく情報というものがなかなか入ってこなかったです。

避難所で

当日の夜はひまわりで過ごしたのでしょうか?

いえ、近くのケーウェーブ(気仙沼市総合体育館)にみんなで避難しました。商品のクッキーを持って。ケーウェーブは高台にあるので、何かあったらそこにという意識はありました。すでに多くの人が避難していましたね。

 

ケーウェーブには暖がとれるようなものはありましたか?

ないです。毛布のようなものもありませんでした。最初はみなさんと同じ広い場所にいたのですが、利用者さんにとってはいつもと違う場所、状況、ご両親にも会えない状況で、多動的な行動がどうしても出てしまって。避難している方みんなが不安な状況の中で、自分のペースが保てない利用者さんがその場にいづらくなってしまって。お手洗いにいってもすごく冷たい目で見られてしまって。誰が悪いわけではないんですが、避難している方すべてがもう限界の状態で。でもうちの利用者さんはなかなか現実を受け入れられないものですから、トイレに行けば大きな声も出るし、楽しいわけでもないのに飛び跳ねてしまう。なので、健常の方と同じ場所にいるのは難しいということで、ケーウェーブの事務員の方に事情を説明して別の部屋を貸して欲しいとお願いしたんです。けれど、なかなか理解してもらえなかったですね。でも他に人に迷惑がかかるからと説得して、どうにか会議室をお借りすることができました。その晩はそこで職員、利用者さんが「の」の字になってクッキーを食べながら過ごしました。でも、次の日にはもうそこに居れる状況ではなくなったので、ひまわりに戻ってきました。

救援物資

食料はどうしましたか?クッキーもすぐになくなったと思うのですが?

そうですね。食べるものはなくなりました。最初に救援物資を届けて下さったのは神戸の方で、気仙沼の被災状況を見てすぐに物資を積んできてくれた方で。ひまわりの看板を見つけて、人がたくさんいるのを見て、「食べ物が足らんやろ?」といってダンボール一つ分のカップラーメンなどの食べ物を届けて下さったんです。暖かい関西弁で声を掛けてくださって。その方がいうには、避難所に指定された所には食料はある、その近くには避難所に指定されず、人が集まっている所があるはずだって。阪神淡路大震災の時もそういう所の人たちが一番苦労したと。そういう所を探して物資を届けている方で、もう本当にうれしくて。そういう救援物資がなかなか手に入らないなかで、ひまわりに行けば何かあるかも知れないとみんな集まってくるんですね。その人たちに何か温かいものをと職員の家から食料を持ち寄ったり、事業所の脇を流れる川から水をくんで、プロパンガスはあったんで、それでお湯をわかして、とにかく暖かいものを提供して。クッキーを作る時に使っている天板を鉄板がわりにして調理につかったりいろいろ工夫をしました。とにかくここに集まってきた利用者さんには、また来るねと言ってもらえるようにと。

 

希望の光

ライフラインが復旧したのはいつ頃でしょうか?

ここは遅かったです。近くまでは電気工事の車がきていたのですが、なかなかこちらまで来なくて。ようやく電気がついた時は本当にうれしかったですね。水道はまだでしたが、水は横を流れる川の水を使っていましたから。それでお湯を沸かして。利用者さんの髪や顔を拭いてあげたかったんです。顔を洗ってあげると「やっと洗えたー」と泣くんですよね。いつもなにげなくやっていることがこんなにも嬉しいことなんだと、その時思いました。お湯ってこんなにありがたいんだって。

 

他に苦労した事はありましたか?

利用者さんのお薬を確保するのが大変でした。病院も被災していますし。混乱している中、私と所長が交代でリュックサックを背負って毎日病院まで通いました。また、遺体安置所で所長のお母さんや、利用者さんのご父兄を探す作業もつらかったです。ブルーシートに包まれたご遺体をひとつひとつ確認するという。以来、ブルーシートを見るだけで思い出してしまいます。高台から炎に包まれる気仙沼を見ながら、これからどうなるんだろうという不安でいっぱいでしたが、利用者さんの前で涙を見せてはいけない、笑っていなければならない、職員は笑顔でいようと話しました。ご主人が無くなった職員もいましたが、本当に頑張っていたと思います。それとやはり、障害者に対する偏見、誤解というものが大変でした。いくら説明してもなかなかわかってもらえない。私は福祉というのは心に余裕があってできるものと思っていますので、あのような混乱した状況ではなかなか理解できるものではないし、健常の方が悪いというつもりもありません。でも、障害があるというだけでそういう目で見られてしまう。そうなると、何かお願いをしたくても出来なくなってしまう。それが残念に思えました。ひまわりは被災から一ヵ月もしないうちに再開したんです。どこの事業所さんよりも早かったと思います。それは、ひとりでもひまわりを頼ってくれる人がいるなら、早く再開しようと当時の小松所長が言ったんです。電気も水道もまだこない、でもそこは職員みんなで工夫をしながら。みんなが集まれるところにしてあげようといって。

 

ひまわりの存在が利用者さんやそのご家族の希望になっていたんですね。

そうですね。ひまわりがあったから頑張れたと言ってもらえて。

意識の変化

震災前は地震に対する備えはしていたのでしょうか?

特別な備えはありませんでした。防災グッズはローソクと懐中電灯だけでした。震災後はラジオを準備しました。車のラジオは携帯できないので、携帯ラジオと電池、それと利用者さんの電話番号など連絡先が分かるリストを各送迎車に積みました。それと携帯電話の充電器ですね。

 

震災の前と後では心境的変化はありましたか?

利用者さんのご家族はあったと思います。一瞬にして奪われる命を目の当たりにし、自分がいなくなったらこの子はどうなるんだろう?と具体的に考えるようになったようです。兄弟でもいればいいんですが、必ずしも皆そうではない。そうなったときに誰が面倒を見るのだろう?と。ですので、子供名義の貯金をされる方だったり、区分認定を貰って入所施設に入れるようにと、いまから短期入所の訓練をされる方だったり。とにかく自分がいなくなった時の事を現実的に考えるようになったようです。

 

最後に健常の方々に知ってほしいこと、訴えたいことはありますか?

いま、ひまわりではパンやクッキーを作ってますが、これは人と繋がる為のツールだと思っているんです。物を売ることで声をかける、障害を持ったひまわりの子たちが笑顔で配達をする、それを見て障害を持っていてもこんなに明るく笑えるんだということを知っていただく。職員も家族もだれもいなくなった時、一度でも顔を見た方ってSOSを出しやすいと思うんですよ。知っている方を増やしていく。障害を持っていてもこの気仙沼という地域で暮らしていく基盤を作ってあげたい。それが甘い香りのするクッキーだったり、香ばしい香りのするパンだったり。そうやって美味しいものを通していろんな人とつながっていく。金銭だけでなく自分がこれから生きていく、そういう輪を広げてくれたらなと思っています。今では気仙沼市内の企業さんであったりとか、行政機関であったりとか、17か所に訪問させていただいてます。そこで、ダウン症って何?自閉症って何?ということ以前に、ひまわりの利用者さんはいつも笑っているよね、楽しそうだよねって存在を知っていただく。私はそういった活動を通して障害に対する偏見を取り除いてあげたいと思っています。こんなにも屈託なく一生懸命頑張っているんですよ、笑っているんですよってたくさんの人に知っていただくためのツールがクッキーやパンなんだと思っています。ひとりでは絶対に生きていけない方々、でも誰かの手助けが少しでもあれば輝けるんですよ。笑えるんですよ。知らないと掛けられない声も知っていれば掛けられる。

 

コミュニケーションが大事で、それが防災にもつながっていきますよね。

私は防災にはそれが一番大事だと思います。ろうそくや電気も大事ですが、人に助けてと言えること、それと何があっても安心して集まれる場所がある、それが一番防災に繋がると思います。

 

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