こぶし

お話:社会福祉法人仙台市手をつなぐ育成会 こぶし 主任 土谷康司さん(男性/当時28歳)

地震発生

14:46はみなさんそろそろ帰る準備をしていた頃でしょうか?

当日は行事をしていました。ボランティア感謝会といって、一年間お世話になったボランティアの方に感謝を込めてお食事会だったり、贈り物をしたりっていうところで、一室にまとまってイベントをしていました。

 

では利用者さんと職員さんと、後はボランティアさん、大勢いらしたんですか?

そうですね、結構大勢だったと思います。スタッフも含めれば45人くらいですか。

 

14:46に発災した時の皆さんの様子はどうでしたか?避難に至るまでの経過などを教えてください。

イベント自体が佳境に差し掛かっていたので、パート職員の学生アルバイトが卒業する、その贈る言葉なんかを話している時に緊急アラームが鳴り始めて。こっちとしては「なんでマナーモードにしておかないんだ!?ちゃんとしておけよ」って思ったんですが、みんなの携帯が鳴るんですよね。それで、「なんだろうこれ」ってなりました。「地震が来ます」の文字を見たときにはもう揺れ始めていましたね。地震の時にはこうしようという避難訓練もしていたし、職員にも周知していたので、ドアの近くにいた職員は脱出経路の確保っていうので、引き戸のドアだったんですけど、ドアのところまで走って行って、ドアを抑えて。他の職員は利用者さんをテーブルの下にもぐらせるようにしていました。頭を隠すように。自分も守らなければいけないんですけど、まずは利用者さん優先で。

 

避難訓練は常日頃から行っていたんですか?

そうですね、当時は年間6回くらいやっていました。

 

2か月に1回くらいですか!?では素早い対応ができたんですね。

そうですね。

 

そのくらいの頻度で訓練をしていたら、利用者さんもそれほど慌てる様子はなかったですか?

そうですね、すごく長い時間揺れていたので、利用者さん自身も「これはただ事じゃない」っていうのを感じたかと思うので。そのぶん職員がすごく声をかけて「頭低くして!」「隠れて」「大丈夫だよ」って声をかけながら、収まるまで待っているというところでしたね。

僕なんかも地震って当時はあんまり怖くないと思っているところがあったんですが、ずいぶん長い間揺れていたので「さすがにこれはやばいんじゃないか」って思い始めましたね。建物が築50年、こぶし自体は1階に位置していたんですけど、2階から上は10何階建ての公営団地になってたんですよね。もともと地震なんかが起きたら建物的にはちょっと危ないかもしれないと言われていたところなんです。そんな話を思い出しながら「大丈夫かな」と不安になりながらも利用者さんに声をかけながら対応していたって感じでしたね。

 

避難訓練が年6回という話でしたが、内容は地震を想定した訓練でしたか?

地震と火災と総合訓練ですね。地震3回、火災3回みたいにやっていました。

避難所へ

揺れが収まってから、建物から出る段階に移っていったと。

そうですね。ドア自体は開閉できるように抑えていたので、そこで閉じ込められることはなかったです。次に避難経路の確認ということで、イベントをしていた場所が非常階段に近いスペースだったので、一応確認してから皆さんと一緒に避難しました。階段なんかも、壁ににひびが入っていたり、天井からパラパラ小石が落ちてきたりした部分もあったんですが、大きく壊れているところはなかったので、そのまま裏口駐車場まで利用者さんに付き添っていきました。避難訓練をしていた時に自力で歩ける方々は先に降りて、スタッフの介助が必要な人たちが後から行くようにしました。

 

避難時に皆さんが履いていたのは内履きのような、運動靴のようなものですかね?

そうですね。

 

ガラスが割れたことはなかったですかね。

そうですね、ガラスが割れたことはなかったですね。イベントをしていたスペースはあまり荷物を置いてあるスペースではなかったので、何かが倒れてきたり、ものが散乱したりすることは無かったので、それはよかったですね。

 

40名を超える人がいらした状況で、全員の避難が完了したのが何時くらいだったか覚えていらっしゃいますか?

詳細な時間は記憶していませんが、みなさんスムーズだったと思います。パニックになるような人もいなかったので。みんな怖かったと思うので、速かったですよ、普段歩く以上に。

 

当時の利用者さんの年齢は、どのくらいの方が多かったですか?

今から7年前なので、30代くらいの方が多かったですかね。50代、60代の方もいらっしゃいましたが。

 

そうすると所定ルートを通って素早く行動できたと。その後は所定の広場のようなところに集まったということでしょうかね。

そうですね。裏口から出てすぐに駐車場がありましたので、そちらに避難していましたね。

 

その後の行動はどういった感じだったでしょうか?

そのあとはですね、駐車場と言っても建物から近いところだったので、そこからも少し離れて、隣の敷地のすぐそばに個人宅があるんですけど、カーポートをお借りして、雪を凌ぎながらいました。

 

それはやはり築50年というのが頭にあって、離れた方がいいだろうという判断ですか?

そうですね。建物の方には近づかないと。利用者さんのこだわりで自分の荷物を持ってこなきゃない、靴を持ってこなきゃないっていうのがあったんですけど、「危ないからやめてくれ」っていうのでそこは制止して。あとは揺れが収まって、必要な物品、例えば毛布だとかを職員が持ってこられるものは持ってくるから、みんなはここで待っててね、という形で職員が建物内に取りに行っていましたね。

 

近隣住民の方も避難していたと思うんですが、様子はいかがでしたか?

そうですね、みなさん外には出ていらしたと思いますが、一時避難で外に出たときはそれほど多くはいらっしゃらなかったですね。

 

そこから次はどうされましたか?

駐車場に出た段階で、各家庭への連絡をしてみましたが、回線がパンクしていてほとんどつながりませんでした。で、「災害伝言ダイヤル」の練習をこぶしでしていたので、そちらに伝言入力もしてみましたが、そちらもだめでした。実際にはどこにもつながらない状態でした。あとは16時くらいに、近くの長町小学校に避難しました。雪も降ってきて寒かったので。移動するときに、建物の裏側の入り口に「長町小学校に避難しています」の張り紙を残して、移動しました。

 

父兄の方々は、張り紙を見て長町小に迎えに来られた方もいましたか?

いらっしゃいましたね。長町小に行った時も人はもうすごく集まっていて、体育館も人でごった返していました。実際に利用者さんと行ってはみたけど「この中には入れないだろう」というので、スタッフの方に「障害のある方と避難してきたんですが、まとまって入れる場所はありませんか?」と相談をして、図工室の方に通してもらいました。

 

いろいろな事業所さんの取材の中で、「部屋の確保」を交渉する段階でトラブルがあったという話を聞くのですが、こぶしさんの方ではいかがでしたか?

多少の待ち時間はありましたが、トラブルはありませんでした。

 

その後長町小学校はどのくらい滞在されましたか?

一泊ですね。その間に張り紙を見て保護者の方がお迎えに来たり、たまたま連絡がついたご家庭の方に引き渡したりした事例もありました。

夜が明けてから、公用車で送迎しようということになりました。ガソリンも残っていたので。自家用車で来ている職員もいたので、方面を決めて利用者を送りながら職員も自宅に帰ることにしました。信号も付いていないところがほとんどだったので、もごすごく慎重に送っていきました。で、ご自宅に着いたものの不在で、お会いできなかった利用者さんの保護者さんもいらっしゃいました。お会いできなかった方は小学校まで戻ってきました。最終的には連絡が取れて、12日中には全員ご自宅に帰ることができました。

 

避難所で特に困ったことはありましたか?

お手洗いはみなさん気にしていましたね。水も流れないし、2日目くらいからは臭いの問題なんかもありましたね。そもそもあまりトイレに立つ方はいらっしゃいませんでしたが。

 

一般の方と同じトイレを使っていらした?

そうですね。

 

長町小学校は地域の指定避難所になっていたんですか?

はい。地域の方が避難してきていました。

 

では避難に必要な基本的な備品はそろっていたという状況でしょうか?

いえ、当日は何もなかったですよね、ただその場でお迎えを待つという感じで対応していました。

 

寒かったですよね。

事業所に毛布なんかも取りに行ったんですけど、清掃班のジャンバーとか、利用者さんの上着とか、あるものを使って暖を取っていました。体を寄せあったりもしてましたね。

停電もしていたので、不安の強い方とは手をつないだりもしていました。たまたま職員が懐中電灯を持っていたので、天井を照らしてうっすら明かりを確保することができました。

とにかく外部と連絡が取れる状況になかったので、とにかくそこに留まるしかないという状況でしたね。

日頃からの備え

順番が前後しますが、地震の直後に感じた脅威というか、心配事はどのようなものでしたか?

連絡が取れないっていうのが、一番困ったことでしたね。たまたまご家族に大きな被害がなく、翌日には全員引き渡しができましたが、もしかしたら、建物が倒壊したり怪我されたり、最悪お亡くなりになったりとか、後から思うとすごくそういうこともあり得る状況で、そうなったときに連絡取れない、でも利用者さんは一緒にいるっていうので、そこから先の対応というので考える部分はありましたね。とにかく一緒にいるしかないとは思うんですけど。情報が入ってこない、連絡が取れない恐怖っていうのはありましたね。

 

当時の情報取得手段というと、携帯とラジオですかね。

そうですね、ただ携帯電話は連絡用で使っていたため、充電も切れちゃって、充電する手段もなくなって、近くの公衆電話も長蛇の列でした。

 

それ以外のがけ崩れや道路の陥没、火災とか、そういった心配はありませんでしたか?

そうですね、そういったものはあまり考えなかったという感じですかね。まぁ、どこがどうなっているか本当に情報として何もわからなかったので。行き当たりばったりじゃないですけど、自分たちが自宅に帰る時も、その場で判断してルートや対応を決めて。

本部を立てて、対応や情報を収集して時系列で対応したことを書いていったりはしていたんですけど、結局スタッフがちりぢりになっちゃうと携帯もつながらないんで、そこでのやり取りはその場での判断になる部分も多くあったので、すごく責任を感じるという、そういう怖さもありましたね。

 

誰しもあんな災害初めてですから、やることなすこと全部初めてですからね。でも避難に関しては、訓練の成果が出たというところですかね。

そうですね。

 

法人全体として、避難訓練は年6回というのが定められているんですか?

各施設によって違いますね。年3回のところもあれば6回のところもあって。

 

当時の施設長さんが防災意識の高い方だったとか?

後は施設の状況や利用者の障害の程度に合わせてという感じで。防火管理者を設けて、避難訓練の計画を立てて…という決まりもあるので、それに則って計画を立てたんだと思います。

 

こぶしさんで防災グッズなどの備えはありましたか?

地震に備えてということで、防災ずきんはありました。避難訓練の時にはそれをかぶって避難するということをしていました。さすがにかぶってから避難とまではいきませんでしたが、駐車場に移動する前に職員が全員分の防災ずきんを持って、みなさんにかぶっていただいていました。あとはラジオだとか、必要になるものは、避難訓練の時に持ち出すものだとかもあったので、それに沿ってということですね。

 

利用者さんがパニックになるということもよく聞きましたが、割と皆さん冷静だったんですね。避難訓練は今も2カ月に1回くらいのペースで続いていますか?

今は年に3回ですね。火災・地震・総合と1回ずつやっています。

 

現在も乾パンやタオルのような備えはありますか?

備蓄品という形で、備蓄水やアルファ米、ガスコンロ・ガスボンベなど、一通りそろっています。あとは、電力の問題があるので、ソーラーでの蓄電ができるシステムを入れました。全館分を賄うことはできないけど、事務室コンセント分とか、照明分とか、最低限の電力を確保している感じです。3日間はそれで一部分だけでも稼働できる体制になっています。

 

震災時に備えていたものの中で、これのおかげで助かったというものはなんでしょうか?

防寒のためのものが役立ちましたね。まさかあんなに雪が降るとは思わなかったんですけど、でもいつ起きるかわからないと思うと、準備がいりますね。食べ物は緊張で意外と空腹にならなかったし、ある程度は我慢もできるので。寒さはそうはいきませんからね。

 

今まで2年近く取材をしてきた中で、ここまで事前に準備ができていたパターンはなかったですね。当時の記録がきちんとまとまっているというのは、ほとんど見たことがないですね。

こちらには備蓄品のリストなどもあります。

 

これらのリストや対応記録などは、のちに職員さんで振り返ってまとめたんですか?

本部にまとめて報告を上げなければいけなかったので、当時の施設長や主任が情報をまとめました。当時の職員が研修事業としてまとめた資料もありますので、ご覧ください。

避難が完了して、以前の事業所が使えなくなったので、拠点を転々としながら、1か月は利用者さんに自宅待機をしてもらってその間に活動できる拠点を調整した記録なんかも載っていると思います。市民センターやコミュニティセンター、仙台市にも掛け合って、そこで許可いただいた場所に集まって日中活動できる場所を開けましょうというところで各ご家庭にもサービス再開のお知らせなどをしていました。仮の場所なので、数か月後には立ち退かないといけないところもあって、その間に八木山市民センターをお借りして、そこを改築してそこに1年半くらい。そして、その間に今の場所の用地を仙台市からお借りして、建物を建てて、こちらに引っ越して、という状況でした。久しぶりにこれを見ると…懐かしいな(笑)

 

資料の中に「BCPの策定」というのが見えたんですが、こちらも震災前からやってらしたんですか?

いや、これは震災後ですね。事業継続計画ということで、震災もあって、ここを休所なく利用していただくためにということと、福祉避難所としても他の地域の方を受け入れてっていうケースもあるので、そこも含めてできるようにっていうので各施設でやっているところですね。現在の常務理事にこれらの内容に明るい者がおりまして、施設ごとに準備をしています。

 

もし今後同じようなことがあった際に、これは必要だと思うものはありますか?

一番はやはり通信だったので、震災時でもつながる手段は強化しておいた方がいいと思いますね。また、何をするにも電力が必要になるので、そちらの準備も。あとすごく困ったのは、ガソリンとかですよね。電力・燃料というのすごく困ったので。例えばガソリンとかも、ストックしておけるものがあって、震災時にも優先して受けられるものを法人として契約しているガソリン業者もあります。

 

それは震災などをにらんでの準備ということですね。

そうですね。

 

それはBCPに入っているんですか。

いや、これは周辺環境・周辺地域の資源のピックアップといったところでしょうかね。

後は、張り紙をして掲示をしたもの、それに気づかない、分からないということがあったので、必ずここをチェックしてくださいというようなものの周知を徹底していく必要があると思いますね。あと、こぶしでやっているのが、震災時の対応の時にここで基本的に待つか、ご家庭が迎えに来るか、迎えに来るが難しいので、こぶしの体制が整えばご自宅に送ってほしいか、各ご家庭と確認をしていて、同じ書面をご家庭とこぶしで一部ずつ保管して、基本的には何か大災害があったときに書面をもとに行動を決めるという風にはしています。毎年の面談時に、内容の更新確認をしています。

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