自宅に戻って

写真:避難所となったお寺から自宅が見える

お話:松田千絵さん(女性/当時40代/聴覚障害)

お寺の次に、また別な所に移動されたんですか?

電気の復旧があったタイミングで、自宅に戻りました。電気が付いたときはみんなとても喜びました。

「水道はまだ2~3か月かかるみたいですよ」と言われましたが、自衛隊の方々がトラックで支援に来てくれていることも聞いたので自宅に戻りました。電気が付けば夜でもコミュニケーションが取れるので。ですが、食べ物は無い状態なので、どうしようかと娘の同級生のお母さんに相談しました。「ご飯ってどうしてるの?」とか、「給水のトラックは何時くらいに来るの?」ということを筆談で教えてもらいました。日曜日にはボランティアさんがカレーを作ってくれるのですが、最初のうち、私はそれを聞いていなかったんです。たまたま娘がその情報を聞いてきて、みんなが向かっていく場所にお鍋を持って向かいました。給水のトラックには時間を確認して並んでいましたが、自分の順番が来る前に水が無くなってしまった時には、ジェスチャーなどを交えて次の給水時間を教えてもらいました。自宅のガスがLPガスだったので使うことができましたが、水が豊富に手に入る状況ではなかったので、お風呂には入れませんでした。3月下旬くらいに岩手から友人が車で来てくれて、「一緒にお風呂に行こう。ご飯も食べに行こう」と言ってくれました。娘と3人で岩手まで行ってお風呂に入り、ご飯を美味しくいただいて戻ってくることができました。

水道はだいたい2か月後くらいにようやく復旧したっていう状況でした。そこからはお風呂にも入れるようになりましたし、ご飯も炊けるようになりました。

 

普通の生活サイクルが戻ってきたのは、ご自宅に戻ってからどれくらい経ってからですか?

仕事が無くなってしまっていたので、苦しい状態っていうのは1年、2年…。「前と同じ生活」っていうことにはならなかったですね。本当に全く変わってしまったと思います。前はそんなに深く考えなくても生活できていたのに、震災の後は買い物に行くための道路も通行止めや浸水ばかりで、本当に不安になりました。以前は手話サークルの友人と飲みに行ったりお話をしたりもできていたんですが、また地震が来るかもと思うと怖くて夜に出歩くことはできませんでした。2~3年経って久しぶりに友人と集まりましたが、前は家いっぱいあった所にも何も無くて、当時の辛い気持ちが思い出されて苦しくなってしまいました。

娘が高校に入る時に、娘とも相談をして、これから仕事をしていくことも考えて、仙台に引っ越すということを決断したんです。そうしたら娘の気持ちも落ち着いてきたようで、だいぶ元気になってきたようで、ほっとしました。娘も自分もお互いに元気になっている状態です。ここまでいろいろありましたけどね。

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