集会所での2日間

お話:松田千絵さん(女性/当時40代/聴覚障害)

高台に避難した後、100人近い職員さんはどうしていたんですか?

自宅の様子や家族の様子を見に、徐々に帰っていく人もいました。近くに家がある人は歩いて帰って行きました。私は集会所に2日間いました。地域の人も集まってきて、家が流されたりつぶれたりした人は1ヵ月くらいいる方もいたようです。

 

集会所は水は出ましたか?

出ませんでしたね。他の人が車で遠くまで行って、山の水をタンクで運んできてくれました。みんなで少しずつ飲み水として分けていました。食べ物は1日1食、同僚と夜に缶詰を食べました。二人で半分ずつ食べて、お腹は空いたしすごく疲れました。

 

集会所は広かったですか?

だいたい20畳くらいですね。10畳くらいずつの二部屋です。

 

ぎゅうぎゅう詰めでしたよね?

ほんとうにいっぱいでした。布団もないし。裏の家の人が毛布なんかを支援してくれて、本当に感謝しています。とても寒かったので、隣の人とピタッとくっついていました。足を伸ばすくらいのスペースも無かったので、ずっと曲げたまま眠るような感じでした。会社の作業着のままだったので、とても寒かったです。

 

周囲の同僚とはどのような会話をしていましたか?

ちょっと会社の人に「何話してるの?」と聞いてみると、周囲の同僚は家族の安否確認をしていたようです。家族のことが心配だから帰りたいと。私も3月12日に帰りたいということを伝えましたが、会社の近くは火事になっているからと止められました。それで、3月13日に同僚と一緒に娘の学校まで歩いていき、無事娘と再会することができました。

前日の3月12日に会社の上司から「娘の名前は何?歳はいくつ?」と筆談で聞かれました。それを子供のいる人たちみんなに聞いて回って、メモを取っていて。上司が歩いて1時間くらいの小学校・中学校に確認に行ってくれました。「お母さんは大丈夫ですよ、お父さんは生きていますよ」と、先生に連絡をしてくれたんです。そして「娘さんは元気ですよ、無事ですよ」ということをみんなに伝えてくれて、本当に安心しました。

 

会社の方々とのコミュニケーションというのは、普段はどうしていたのですか?

筆談です。震災の時はたまたまカバンに「筆談ボード」を入れていたので、それを使ってやり取りをしていました。もし、紙が無ければ…身振りとかで何とかするか、何も言えなくて情報の伝達の仕方がなくて我慢するしかなかったかもしれません。

 

避難する時には、周りの方に手を引かれて避難したのですか

いえ。前後を同僚に挟んでもらって、前の人に付いていく形で避難しました。

 

会社には松田さん以外に聴覚障害がある方は働いていたのですか?

いえ、私だけでした。他には知的障害をお持ちの方がいらしたんですけども、その方も一緒に逃げました。

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