繋がることの大切さ

お話:立身(たつみ)憲一さん(男性/当時60代/視覚障害)

横浜にいらしたとき、宮城県や横浜市の視覚障害者福祉協会に連絡をされたということですが、立身さんは何かをやりたいと思っていたのでしょうか?

多分ね。この先どうなるか分からない状態で、その地域でいろいろ繋がりができたのは自分にとっては良かったですね。今もいろいろなやり取りがあります。

 

離れていても繋がり、交流があるということですね。

そうです。施設の所長さんから紹介してもらった横浜の視覚障害者の卓球クラブにも行くようになったりして。申し訳ないけど充実してたのかなと思いますね。

 

そういう状況でも何かの役に立ちたいという気持ちが常にあったということですよね。

そんな立派なことではないですよ。何かをしたいという気持ちはあったと思います。今模索中なんですが、石巻地区で視覚障害者の就労支援に関することをやりたいと考えているところなんです。同じ想いを持った仲間も何人かいて。視覚障害者の就労支援というのはなかなか難しいんですが、難しいねで終わっていては何も進まないんで。例えば、仙台にある視覚障害者を対象とした障害者就労支援事業所で点字名刺や封筒を作っているのですが、自分達もできるのではと思って試行錯誤しているんです。とにかく形にしたい。形になれば行政などにも説明しやすい。次の段階も見えてくる。行政、社協の方々と協力しながら進めていきたいですね。それと、視覚障害者向けの情報ネットワークが弱いと感じているんです。当事者向けの情報がなかなかまわってこない。視覚障害者福祉協会に入っていない人がいますよね。堅苦しく感じて敬遠しているのかもしれない。そんな人達にも情報を流したいんです。

 

積極的に活動されているようですが、震災がきっかけになった部分はあるのでしょうか?

そういう部分はあるでしょうね。北上町にいた頃は、交通の便が悪いので家に籠りがちだったのですが、両親も震災の前の年に亡くなり、1人になって。この先のことを考えていたときにあの地震があって、田舎を出て行かなければいけなくなりましたから。

 

横浜から仙台に戻ってきてアパートに住んでいたとのことですが、そちらにはお1人で?

1人です。1部屋。みなし仮設ですね。民間借り上げの。

 

そちらでは何かサポートはありましたか?

生活面ではホームヘルパーの事業所の方に。それとアイサポート仙台、日本盲導犬協会仙台訓練センターの方ですね。外出時はヘルパーさんにサポートしてもらっていました。歩行訓練もやっていたのでひとりでも歩けるのですが、事故の話も聞いていたので外出時は同行援護してもらっています。

 

近所の方々は視覚障害に対しての理解はありましたか?

白杖をついて歩いていたんで、理解はしてもらっていたと思います。

 

例えば、近隣住民の方が歩くときに補助してくれるようなことはありましたか?

ヘルパーさんに頼むので近所の人では無いんですが、外で歩行訓練しているときに「遠慮しないで声掛けていいんだよ」と言ってもらったことはありますね。ありがたかったですね。

 

他の視覚障害の方にインタビューしたときに、場所が変わると環境認知が大変で家を借りて入ったときにその空間を認識するまで大変だったという話があったんですね。今、立身さんの話を聞いていて交差点を一人で行く、幅がどれくらいとか、階段の高さとかそういうのも大変なんだろうなと思っていました。

家の中の方が大変だと思いますよ。歩道橋などは手すりや階段があって一定していますから、いいんですよ。一定しないところ、例えば、幅の広いところとか、全然方向が分からなくなってしまったりしますね。仙台にいた頃は1Kかな、1部屋と風呂、トイレ。だから手を伸ばせば何かに手が届く。1人暮らしはこれでいいのかなと。最近大変だったのはここ(石巻市の新築のご自宅)です。去年の8月7日に引っ越ししたのですが、搬入を第三者にやってもらったら、どこに何があるのか分からなくなって。洗剤やら何やらまったく分からない。レンジの横にしばらくドリンクのような物があったんですが、「これはドリンクじゃないな」と思ってて。それはトイレ用品だったんですが(笑)。結局、体をあちこちにぶつけながら配置し直しました。

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