配慮

周りの方々の配慮・助かったこと

 まず初日の晩は生物室を割り振ってもらえて。先生たちとの話し合いをする場で南三陸町社会福祉協議会の方たちや「のぞみ」や老人ホームの方たちが避難しているので、各一部屋ずつ与えたほういいねってお話があり、翌日には各教室を確保してくださって。3月12日の午前中だったかな?
 助かったのは水があったこと。あとはラジオの情報を全部教えてくださって。テレビもなにもないので。
 さらに、日付変わる前くらいに、南三陸町社会福祉協議会のキーの方と学校側の配慮で、高校の北にある旭ヶ丘団地からおにぎりを分けてもらってきてくれて。それはありがたい1個でした。

避難所での利用者さんの様子

みなさん気張っていたと思います。漂流物にぶつかっての怪我とかも多少あったんですけど、目立った大怪我とかはなく避難はできていました。
なので、そんなに極端に騒ぐ人もいなかったです。とにかくとんでもないことが起きたって思ったんでしょうね。肌で感じるっていうか。誰1人文句も言わず。部屋も確保してもらったことも大きかったし。
一般の方もいらっしゃったんですけど、3~4人ぐらい。その方たちも理解ある対応をしていただきました。

避難場所での生活

 利用者さんはある意味互いに気を遣いあって、我慢をしていた方も沢山居られたと思います。
不便な生活が続くせいでちょっとピリピリするということもありましたしね。何もやることがないと悶々と内にこもってしまうので。
 そんな中、トイレの水がなかったので学校のプールからバケツリレーで水を汲み置いて、皆用を足したら流すというサイクルを、避難所の中で作り始めました。そして、そのバケツリレーに参加して身体も動かして。掃除する場所を決め、自分達のフロアの掃除を役割分担的にやらせてもらおうと思ったんです。
 避難所でもすごく配慮してくれていました。例えば要介護状態の方でなければ基本は体育館のところ、我々は体育館に一泊したあとに別の部屋の方がいいよねという風に言って頂き、教室を一つ空けて頂いて。そこに40人位大人が寝れば足の踏み場もないのだけれど、でもやはり我々としては気持ちも楽でしたよね。周りの方へ気を遣わなければならない部分が増えると我々も追い詰められてしまうので・・・それは本当にありがたいことでしたね。助かりました。

避難場所での困ったこと

 困ったことだらけではありましたが我々だけがそれを言っても仕方がないというのもありましたし、皆それは言わずに我慢していましたね。
 むしろ振り返ると色々ご配慮頂いたことや、感謝のこととかのほうが浮かんでくる。
 ちょうど塩釜は港に近く海産物の加工場が近くに沢山あったおかげで、冷蔵庫に入っていたものを避難所の食料として出してもらえたんですよね。
 被害の程度の地域性というか、多賀城では、聞くとほんとに食料が少なくてひもじい思いをしたみたいですけど、我々はもちろん満腹という訳ではないですけど、そういう面でもすごく結果的に恵まれていたなと思います。
 ただ避難先は学校なので、いつまでも被災者が体育館に居ると学校も困る訳ですね。最終的に我々も引き上げる決断をしたことの一つに、いつごろ出て行けるかという問い合わせが入り始めた他、運営側の問題もあったんですね。
 やはり学校なので子供達のために空けなければいけないというのも当然だとも思いますし、新学期が近づいてきたりして。あの当時まだ小学校は卒業式をしていなかったですしね。そう言われればやはり、子供達の卒業式がなかったというような残念なこともないだろうから、なんとかして早く出なきゃねと。
 でも本当に助けられたことしか思い出せないので、ありがたかったなぁって思います。

公営住宅へ

公営住宅に入ったのはいつからですか?

今野さん:引っ越したのは平成28年の初めかな…1年経ったかな?おじさんとおばさんに引越しの手伝いをしてもらって。

柳橋さん:一軒家なんです。障害のある方とか足腰が弱い高齢の方々のために作られた大きい一軒家の平屋。早くそういう公営住宅に入ったほうがいいねと思っていたところなので、うれしかったです。

今はそちらから送迎バスで来られるんですね。お仕事は何時から始まるんですか?

今野さん:いつもは…朝は6時頃に起きてご飯食べて、9時頃に家を出るんですね。(作業は9時30分から開始)
 あと、新しい家で暮らすようになって、お隣さんも友達になって。優しい老夫婦。

柳橋さん:隣のお家の組み合わせなんかも配慮があったと、引っ越しを手伝ってくれた親戚の方が話していました。

避難所の生活

そんな感じで北上中学校に3日間、社協の建物に2日間、市内に住む甥の家に2週間避難してましたね。社協はうちの集落の山裾にあるんで。目の前まで水は来ましたが、建物は無事だったので。

 

ご自宅から北上中学校まではどれ位の距離なんでしょうか?

2キロから3キロくらいですかね。

 

北上中学校はもともと避難所として指定されていたんでしょうか?

はっきりと避難所として指定されていたかは分かりませんが、宮城県沖地震がいつか起きると言われ続けていたんで、避難所という意識はあったと思いますよ。広いし、車で避難しやすいし、建物もあるし。

 

立身さんは何かあったら北上中学校に避難しようと思っていたのですか?

思ってないです。そもそも津波という頭がないから。

 

北上中学校には飲み物や食べ物はありましたか?

近くの温泉の方が炊き出しに来まして、一口大のおにぎりとか、ウィンナーとか、卵とかが配られました。贅沢が言える状況ではなかったです。

 

立身さん以外に障害をお持ちの方はいらっしゃいましたか?

そこでは私だけだと思います。名乗らないだけでいたのかも知れませんが。周りの方からは常に声を掛けてもらってました。

 

避難所で困ったことはありましたか?

困ったと言っちゃいけないんだろうけど。例えば、トイレはバケツに水を汲んでおいてそれで流すんだけど、自分は感覚でできるから正直苦にならない。でも、周りの人は気を遣ってやってくれるのね。嬉しいんだけど、感覚で生きているもんだからひとつズレると、いろんなものがズレちゃう。そうなるとトイレに行きにくくなってくる。

 

それは、周りの人が気を遣ってくれるのがかえって申し訳ないなと?

そうそう。そうなってしまう。ひとりなら何とか流したりというのはできる。でも、そういう問題じゃないんだなと思って。何か変な意味で気遣ったのかなと。

 

遠慮でしょうかね。

そこから社協の建物に移動して。カップラーメンとか物資がいろいろ届くから。そこで感じたのは、同じ集落の仲間の中で視覚障害者は自分だけなんです。次の日から捜索やら何やらやるじゃないですか。動けないのが自分だけなの。2人組になるとしても、自分と組むと荷物になる。みんな精一杯でそれどころじゃない。そうなって初めてそこにいるのがつらいと思った。後日、横浜に住むもう一人の甥っ子が訪ねてきたんだけど、一緒に横浜に行こうと思いました。申し訳ないと思いながらね。それで横浜の方で4ヵ月ほどお世話になって。白杖とか何も無いので、宮城県の視覚障害者福祉協会に電話したら、横浜の視覚障害者福祉協会を紹介してもらって。電話したらすぐ来てくれることになって。また、そのときに障害者福祉施設の方と知り合ったのですが、そこで箱折りなどの作業を一緒にやらせてもらって。半日作業して、午後にウォーキングとか、ボランティアの人たちと一緒に歩くんですよ。いろんな所を歩かせてもらってね。こんなこと言ったらバチが当たるかも知れないけど充実していましたね。でも、施設ではいいんだけど、住まいの方ではどうしても気を遣ってしまうんだよね。

 

長くいるとそうなりますよね。

だからちょっといろんなことが見えてきたかなと。で、たまたま仙台のアパートに引っ越しできるようになったので、引っ越しました。そこには5年いましたね。仙台に越してからも宮城県の視覚障害者福祉協会とかいろいろな方に協力してもらって助かりましたね。横浜にいても仙台にいても充実していたというか、勉強になったと思います。

繋がることの大切さ

横浜にいらしたとき、宮城県や横浜市の視覚障害者福祉協会に連絡をされたということですが、立身さんは何かをやりたいと思っていたのでしょうか?

多分ね。この先どうなるか分からない状態で、その地域でいろいろ繋がりができたのは自分にとっては良かったですね。今もいろいろなやり取りがあります。

 

離れていても繋がり、交流があるということですね。

そうです。施設の所長さんから紹介してもらった横浜の視覚障害者の卓球クラブにも行くようになったりして。申し訳ないけど充実してたのかなと思いますね。

 

そういう状況でも何かの役に立ちたいという気持ちが常にあったということですよね。

そんな立派なことではないですよ。何かをしたいという気持ちはあったと思います。今模索中なんですが、石巻地区で視覚障害者の就労支援に関することをやりたいと考えているところなんです。同じ想いを持った仲間も何人かいて。視覚障害者の就労支援というのはなかなか難しいんですが、難しいねで終わっていては何も進まないんで。例えば、仙台にある視覚障害者を対象とした障害者就労支援事業所で点字名刺や封筒を作っているのですが、自分達もできるのではと思って試行錯誤しているんです。とにかく形にしたい。形になれば行政などにも説明しやすい。次の段階も見えてくる。行政、社協の方々と協力しながら進めていきたいですね。それと、視覚障害者向けの情報ネットワークが弱いと感じているんです。当事者向けの情報がなかなかまわってこない。視覚障害者福祉協会に入っていない人がいますよね。堅苦しく感じて敬遠しているのかもしれない。そんな人達にも情報を流したいんです。

 

積極的に活動されているようですが、震災がきっかけになった部分はあるのでしょうか?

そういう部分はあるでしょうね。北上町にいた頃は、交通の便が悪いので家に籠りがちだったのですが、両親も震災の前の年に亡くなり、1人になって。この先のことを考えていたときにあの地震があって、田舎を出て行かなければいけなくなりましたから。

 

横浜から仙台に戻ってきてアパートに住んでいたとのことですが、そちらにはお1人で?

1人です。1部屋。みなし仮設ですね。民間借り上げの。

 

そちらでは何かサポートはありましたか?

生活面ではホームヘルパーの事業所の方に。それとアイサポート仙台、日本盲導犬協会仙台訓練センターの方ですね。外出時はヘルパーさんにサポートしてもらっていました。歩行訓練もやっていたのでひとりでも歩けるのですが、事故の話も聞いていたので外出時は同行援護してもらっています。

 

近所の方々は視覚障害に対しての理解はありましたか?

白杖をついて歩いていたんで、理解はしてもらっていたと思います。

 

例えば、近隣住民の方が歩くときに補助してくれるようなことはありましたか?

ヘルパーさんに頼むので近所の人では無いんですが、外で歩行訓練しているときに「遠慮しないで声掛けていいんだよ」と言ってもらったことはありますね。ありがたかったですね。

 

他の視覚障害の方にインタビューしたときに、場所が変わると環境認知が大変で家を借りて入ったときにその空間を認識するまで大変だったという話があったんですね。今、立身さんの話を聞いていて交差点を一人で行く、幅がどれくらいとか、階段の高さとかそういうのも大変なんだろうなと思っていました。

家の中の方が大変だと思いますよ。歩道橋などは手すりや階段があって一定していますから、いいんですよ。一定しないところ、例えば、幅の広いところとか、全然方向が分からなくなってしまったりしますね。仙台にいた頃は1Kかな、1部屋と風呂、トイレ。だから手を伸ばせば何かに手が届く。1人暮らしはこれでいいのかなと。最近大変だったのはここ(石巻市の新築のご自宅)です。去年の8月7日に引っ越ししたのですが、搬入を第三者にやってもらったら、どこに何があるのか分からなくなって。洗剤やら何やらまったく分からない。レンジの横にしばらくドリンクのような物があったんですが、「これはドリンクじゃないな」と思ってて。それはトイレ用品だったんですが(笑)。結局、体をあちこちにぶつけながら配置し直しました。

健常者への要望

今後、健常者の人に対して訴えたいこととか、健常者の人たちが渡辺さんのような方々にお手伝いをしたいと思った時には、どうしたらいいか教えてください。

筆談でもいいし手に文字を書いたり、無ければ地面に書いたりと方法はたくさんあるので、いろいろな方法でコミュニケーションを取っていただけるとありがたいです。そこに表情を入れたり、身振りだけでも分かるので、そういったコミュニケーションができればとても助かります。

避難所での生活

小山さんがお住まいの地域だと、避難所というのはどちらになりますか?

大きな地震が発生したときは、まずは高台へ避難するように言われていました。小学校でも津波を想定して、山を登って高台に避難していたようです。なので、私たちが利用した高台の避難所にたくさんの人が集まりました。

 

避難所に集まった人達は何人くらいいましたか?

200人くらいはいたと思います。ギュウギュウ詰めでしたね。私の居住する集落だけでなく、周辺の集落で自宅が流された方々も避難してきましたし、高台の自宅に居た人達も危ないので、みんな避難所へ集まり、一緒に過ごしました。もう、ずっと揺れっぱなしでしたからね、あの晩は。

 

そこにはどれくらいの間いらっしゃいました?

5月末なので、2ヶ月半はいたと思います。長かったです。

 

避難所で、ご家族やお知り合いの方以外で声をかけてくれる人はいましたか?

避難所の中では誰かしら声をかけたり、私の食事の配膳をしてくれました。その場で食事を受け取って、近くで声をかけてくれた方と話をしたりすることはありました。ただ、私自身は、見えにくい、聞こえにくいため、周囲の状況がまったくわからないので、こちらから声をかけられないんですね。なので、自分が動きたくても動けないことがありました。

ページの上へ戻る