避難

避難と救助1

避難した歩道橋から下は屋根くらいまで水深があって降りるに降りれなくて。雪が降り積もり寒くて。消防隊が現場に来たのは17時前だったけど、周囲の被害が酷くて結局救助されたのは夜中の3時半でした。施設に行けたのは13日。行ったら津波の跡がついてて、室内はぐっちゃぐちゃになってました。
事業所前の道路も陥没して、堤防から溢れた水が直撃した感じで。津波が海側からと川側からと同時に来たようでした。

避難と救助2

 我々は砂押川沿いに避難したのだけれど、川から離れて避難してたら逆に津波に飲まれていたかもしれない。あの震災ではセオリー(理論)は役に立たなかった。「川から離れろ」という指示通りにしていたら、もしかしたら自分もこの世にいなかったかもしれないだろうなって思って。本当に右か左かが運命を分けた気がします。

避難と救助3

 救助されたのが夜中だったおかげで、利用者さんに悲惨な光景を見せる事がなかったのはある意味救いでした。利用者さんの中には記憶力がいい人もいますので。
 うちの施設は知的障害の方が多かったのですが、バランスを崩すっていうのはそんなにいなかったんです。「なんもなくなっちゃったね」「流されちゃったね」って。
 「何かしよう、頑張らなきゃね」って言ってくれて救われましたね。

津波への意識

地震が収まった後の行動は?津波の危険性の認識は?

 津波への危険性は考えていました。しかし、認識していたものの、確実で安全な避難先などの検討に甘さがありました。
津波の危険性は予期していました。

では、すぐ避難の指示に?

 はい。そうですね。

利用者さんも、日々の訓練の賜物で指示に従ってくれて避難行動に移られた?

 そうですね。そこまではスムーズにできました。

避難場所の決定について

避難場所は小学校とのことでしたが、それは、津波とかの際にはそこに行くって決まりがあったのですか?

はい。ひとまず町内の荒浜小学校に避難しました。
震災前から工房として、避難先は、町内の指定避難所とは、決めていました。しかし津波の危険性もわかっていたので、それを考慮しての確実な避難場所はあの当時まだ検討段階でした。
荒浜の地形や津波避難に対する見解を防災に長けている方とお話したこともあり、この地域の構造上、津波が川のように押し寄せる可能性があると聞いていて。
実際、海水浴場から一本道の先の真正面にガソリンスタンドがあるんですけど、そこで津波や流れた建物などはぶつかりました。
そこでガレキがスタンドに留まり、追い打ちをかけるように次の津波が来て、波の方向が変わったと聞きます。それで、私たちの事業所がある新町2丁目のほうに波が分かれたわけですよね。
それもあってか、私たちがいた事業所の建物は津波で持っていかれてまったく何もないのかなと思うんです。ちょっと波からそれたところは家が残ってたりするんですけど。
どういう風に避難するかは、検討してましたが、津波の通り道になるであろう荒浜小学校への避難は、あの当時まだ検討段階でした。津波から逃れるために具体的にどこに避難するかまでは最終決定に至っていませんでした。

避難行動の中で

最初の避難場所までの移動は徒歩ですか?

徒歩と、車も平行して。

避難行動中の動きはどうでしたか?

工房の近くにコミュニティセンターがあったんです。その後ろに公園がありました。
公園のような広いところ、何もないところに行ったほうが安全じゃないかっていう情報も、移動避難する中、聞こえてきました。
公園に避難している方もいました。あの位の揺れだったら、建物がなくて倒れるものが何もないところの方が、安全な気がしますよね。
あの時もし、地震の発生が工房からの帰宅時間だったら、利用者さんの自己判断で公園を選ぶ危険性がありました。
個々の判断にゆだねたら、もしこっちおいでって言われたら、付いていくこともあったのではと、今考えると怖いですね。

避難時の利用者さんは何名でしたか?

当日、利用者さんは7人いました。一緒に避難したのは6人。1人は、レクリエーションで早く終わったこともあって、地震発生前に先に帰っていました。私たちは工房にいた利用者さんと一緒に避難しました。

そのあと、津波は何分くらいで来ましたか?

私たちはその後、荒浜小学校ではなく内陸の小学校に逃げたので、津波自体は見ていません。

その内陸の小学校へ逃げるという判断も、ここもまずいんじゃないかってことからですか?

そうですね。ラジオから聞いた津波の高さの情報が、あの時、時間と共に変わっていったので。
荒浜小学校に行って混乱していたのもあって。車で敷地内に入れなかったこともあり、また、小学校の周辺も渋滞していました。そういうこともあり、一旦、小学校の近くのコンビニに避難したんです。
交通量の多い県道も近くにあり、渋滞していたし、その人たちが避難する場所となれば荒浜小学校しかないと思いました。そういう流動性のある県道を走るドライバーの人達も校舎入りきれるのかなって、心配になり、一旦私たちは近くのコンビニに待機しました。
コンビニ前は県道で、目の前で渋滞も見てますし。避難場所の再検討を始めたんです。
その時に、ラジオの情報が変わって、「10メートルの津波が来る」と。10メートルだと、3,4階しか、安全な場所って確保できないですよね。なので、このままここにいるのは危険だなと判断しました。
荒浜から4キロ先に七郷小学校があるんです。そこが、数年前、工事をしていたのを思い出しました。耐震工事をしてたということで。そうしたことも含めて安全を考えて、避難先を七郷小学校に変えました。

津波が来るまで

 すごい揺れで、これまで防災教育を受けてきたこともあるので、津波が来るというのはすぐ思ったんですけど、まさかのまさかですよね。
 3月2日に、大規模災害を想定した、災害ボランティアセンターを立ち上げる訓練をしたばっかりだったので、ここにいれば雨風もしのげるし、ご飯もあるし、泊まっても2日3日かなと感覚でした。ここにいれば大丈夫っていう思い込みをしちゃったんですよね。
 地震の後、「のぞみ」の前にある広めの駐車場のところに、災害対応のために、テントを出し始めた時に、雪が降り始めて。
 「炊き出しもあるだろうし早く組まなきゃね」なんてやり取りしていたら、地域のみなさんもぞろぞろ避難してきたんですよ。

津波の襲来

テントを組み始めてから20分くらい過ぎたと思うんですけど、誰かが「津波だ!!」って言って。海のほうを見たら、電信柱がポキポキ折れていくし土煙があがっていくし。
まだその時点では、ここが避難所だからここまでは来ないよねって思っていて、少し傍観していたんですよね。初めて見る光景だったので愕然としたというか。
でも、様相が変わってきたんですよね。今まで煙だけだったのが海面が見え初めて。火災で燃えてる家は流れてきてるし、ここもやばいぞって直感で思った。
一般の人や車も駐車場に沢山来ていて、「のぞみ」の車ももう出せなくて。とりあえず自分の持ち場なので「のぞみ」に戻ろうとしたら、名指しで、外に避難していたベッドで寝ている方を助けてって指示されて。名指しで指示されるとやらなきゃ!って思うんです。津波が来ているので悩んでいる暇もないので。津波が迫り来るの見ながら、ベッドの方を安全な場所へお連れしようとしていました。
恐怖だったけど、助けなきゃって思いで逃げていたら、さらに弱視のおじいさんも託されて。その方も介助しながらなので、移動がどうしても遅くなってしまう中で、駐車場の裏の山に向かって避難しようとしました。その時には駐車場のほうまで津波があふれかけてる状態でした。
私が津波だって気づいてから15分あるかないかでここまで来て。私は結局津波に飲まれたけどなんとか裏山に流れ着いて。そこから10分弱かそのくらいで波がザーっと引いて助かりました。

「のぞみ」のみんなと合流

裏山付近で救助活動に参加した後、「のぞみ」のことが気になったので、戻ったんです。「のぞみ」に人が残ってないといいなと思って。瓦礫の山だったんですけど、中に入って一部屋ずつ声かけて確認しました。もう誰もいないような状態でした。
その後、裏山にある志津川高校の昇降口に向かったら、ちょうど畠山(のぞみ職員)がいて、状況を聞いて。
「みんなずぶ濡れだけど、生物室にいる」「1人は(のぞみ内で)亡くなっているの確認したんだけど、他の利用者さんや自分たちの命のこともあるのでとりあえず引き揚げてきた」「1人、見つからないんだ」と報告を受けました。
暗くもなってきてるので、とにかく今残った面々をサポートしようという話をして高校の生物室に行きました。
生物室には「のぞみ」の利用者さんと職員と、他の一般の方もいて。30人くらい入れる部屋でした。

同じ法人内の施設について

 指定を受けているわけではないのですが、福祉避難所になっている施設もあって。朝晩は家をなくした職員や利用者と一緒にご家族も共同生活をして、日中は普段のように作業をしてという生活をしていたそうです。ご家族の方も、そこから職場に向かわれたりしていました。
 別の施設でも、被災した地域の方々もみなさん避難してきて、最大8月くらいまで一般の方もいるような状況だったそうです。福祉避難所扱いとして気仙沼市からへ支援もお願いして、応えてもらっていたそうです。
 「のぞみ」もそういう支援を受けた施設から支援物資を分けてもらって、避難所にいる利用者さんたちに持っていって分けていました。

高台の避難所

牡鹿半島の高台に建つ保健福祉センター「清優館」。その一角に「くじらのしっぽ」があります。

どちらかに避難場所を構えたんですか?

多田さん:今使っている作業室のところで、寝泊りなどの生活をしていたんですよね。避難してきた一般の方々は、清優館内の各部屋やホールを使っていて、分かれていたようです。
安子さん:最高時、ここ(清優館)は500人いたそうです。避難した人多かったよね。(一般の人も含めると)
(震災時、多田さんと、安子さんは別の事業所にいらっしゃったそう)

滞在期間はどのくらいこちらで避難していたのですか?

多田さん:夏くらいまでいた?
小川さん:はい。

体調を崩されたりとかは?

かよ子さん:体調崩すって言うよりは、メンタル面のほうが大変でしたね。ここも、ごらんのとおり高台の一つしかないので。いっぱい人来たよね。
小川さん:はい。
かよ子さん:ドア一枚出ると、知らない人たちがたくさんいて、いつもと違う環境だったよね。

避難所から避難してきた障害者

自分も避難してきて弱ってるのに、ちょっと弱い人たちに手を差し伸べることっていうのは難しい。

多田さん:自分は震災時、(石巻)駅前の障害者相談所にいたんですけども。震災後、仕事で回ってるときに、あるご家庭に行ったんです。一階はもう(津波被害で)何もなくて、二階で重心(重度心身障害)の方が、生活してたんですよね。
それで、その方の親御さんと話した時、(発災時)最初、学校が近くにあるから避難したらしいんです。でも、その日の夜に(避難所に)居れなくなって、車の中でずっと過ごしてたそうなんです。重心の子なので、夜、(症状が出て)騒いだりしたことで、周りからの心無い言葉もあったみたいですよ。でも車の中だけじゃ厳しいとなって、一回家に戻ったそうなんです。そうしたら、下はだめだけど、二階に何とか上がれたから二階に上がったんだそうです。そういう話を聞いて、やっぱり人間は、ある程度のつらい状況下になると、この方は障害持ってるから大変だよねっていうよりもまず、うるさくて寝れねんだって言ってしまうのかな。

かよ子さん:そう、自分になってしまうのね。

多田さん:知らないって怖いって。ほんとにそういう意味なんだなって。

安子さん:でも、ほとんどがこれだと思うよね。

多田さん:だから、避難所に行けなかったっていう人がほんとにいっぱいいた。

かよ子さん:だから、そうやって非難されたり、何かわからない視線とか、何かわからない空気感で、その場(避難所など)にいられなくて、車に居ましたとか、家、いつ倒壊するかわからないけど、そこにしか居られないんですっていうのは、ほんっとにね、キツイだろうなー。

津波からの避難

誰かがラジオを点けたので、津波警報が発令されたことに関しては割と早く入ってきましたね。
サイレンが鳴り始めたのでこれはただならぬ雰囲気だということになり、そしてラジオからもそういう情報が入ってきて。ここは沿岸部でもあるし、このままここに居ない方がいいだろうなと。あまり迷いなくすぐに避難しなきゃいけないということで。
避難場所は車で行くと2~3分位の杉の入小学校に行きました。高い所にとにかく上げるということを常に考えているので、斜向かいにあった、坂を登って一段高くなっているスーパーの敷地までまず上がりました。スーパーの屋上から上の道に出れるので、そこを目指してまずは皆をピストンで移動させようということで。
歩ける方は歩いて行ってもらい、歩くのがちょっと遅いと思われる方は車で二往復くらいして、その間、車が渋滞などでもし止まってしまったらすぐ捨てる、だけど動いていれば車の方が早いから、動いてる間に、公用車と一部職員の車を使って全員をまずはスーパーの屋上まで連れて行くことができました。
指示を出した後、私は最後の車に乗るようにして、屋上で落ち合うということで。歩きのメンバーも屋上まで上がってもらって、だったと思います。
30分かからずにそこまでは辿り着き、しばらく「じゃあ、どうしよう…」とはなりましたね。全員が車には乗っていなかったですし、もの凄く寒い日だったわけで、あの日は。これはやはり、どこか屋根・壁がある所に行った方がいいだろうということで。避難場所が杉の入小学校というのは認識しているので。
スーパーからは平らに、300、400メートル位歩くんですが、歩きの方はそのまま歩き、車の方は車で行きました。受け入れてくれるかどうかとか、他の人が避難してるかとかそういうことはよくわからないままにまず杉の入小学校まで行きました。

避難場所での利用者について

利用者の様子は、印象としては、今思い返すと私もそうだったんですけど、ピンときていない様な、何が起こったのかわからないような感じっていうのかな。とにかくすごい揺れに驚き、何がどうなっちゃうんだろうという不安はあったと思うんですけど。
泣き叫んで取り乱すような方は全然いらっしゃらなかったですね。いつも避難訓練の時はちょっとへらへらしているような方も、集中して指示を聞いてくれていた覚えがあります。あんなにスムーズにいくものなのかと、いまだに思い返していますね。
危機感が皆あったのだと思います。ただならぬことが起きたということに関しては皆がそう思っていたと思うし。でもその時点で私は津波に関してはまったく・・・本当に来るという風には思えてなかったところがあって。セオリーとして避難はしたけども、でもそれは自分の意識の低さだなといまだに思うのですけど。

避難場所での人数

 仕事をさせて頂いているさくら学園のグループの一つである事業所では、水が引くまで出ることが出来なくなっていました。幸い、社屋の二階に避難することができたため皆無事ではありましたが、自衛隊の救助の後我々と合流できたのは数日が経過してからでした。その辺りがはっきりわかるようになるまで、気が気じゃなかったですけど…。
 おいそれと立ち入りできない、規制もかかっている中ではどうすることもできないまま、何人かは杉の入小学校からご自宅に戻せる方がでてきましたね。最初は30人位、利用者さんは居たと思うんです。藻塩の里と合わせると40位は居たかもしれない。
 それが段々減っていって、最終的に10日後位までは20人。
 我々はグループホームの事業もしており、そこのメンバー達も一緒に居たんです。ホームが全部津波にやられてしまった訳ではなかったものの、ライフラインもなく、分散すると職員の配置がつかない状況だったので分散をするとかえって今はまずいだろうと。手の回し様が無くなってしまうので。避難所に一緒に居て、そこで何人かの職員が見守りとかしながらでしたね。

避難した3日間

海に近かった「織音」の建物は、大きな津波に飲み込まれてしまいます。しかし利用者や職員全員で建物の上階に避難し、みんな無事に乗り切ることができました。

当時、利用者さんは何名いらっしゃったんですか?

熊井さん:利用者は8名くらいです。その中には、支援学校を卒業した男の子が一人、小学校6年生の女の子がお母さんと一緒に遊びに来ていました。その人数で、一週間ビル(以前施設があった)に避難していました。たまたま、スタッフは全員いました。
(揺れが収まってから、)一度違う場所に避難するために車に乗せたところで、一人の利用者がトイレに行きたいと言い出しました。それで、(事業所があった)ビルに戻ることにしました。その時、近くに住んでいたビルのオーナーさんが、うちのトイレを使っていいよって、言ってくださったので、うちのスタッフ数名とその利用者と一緒にオーナーさんのお宅に行きました。
その間に津波が来たので、日曜まで(当時3月11日は金曜日)スタッフたちとその利用者は、オーナーさんのお宅にお世話になっていました。
オーナーさんのお宅は建てたばかりなのに、一階がだめになってしまいました。津波が来る前だったので、スタッフたちは靴を脱いでお宅に入ったため、靴をだめにしてしまいました。

夜は道の駅で

愛さんの自宅は津波で一階が被害に遭いました。

熊井さん:震災後、私と前所長が、愛ちゃんのお宅を家庭訪問しました。私は愛さんがご自宅の二階で寝られているか、心配で聞きました。そうしたら、やはり余震が怖いと言っていました。夜は上品(じょうぼん)の郷という道の駅に言って、自家用車のセダンの中で過ごされていたそうです。
それを聞いて、愛ちゃんたち家族が入れる、福祉避難所(障害者の方、家族が生活された)の部屋を貸してもらえないかと、(他の社会福祉法人)祥心会に交渉しました。そしたら、一つ空いていました。

その当時、車の中でお父さんたちとは、どんな話をしましたか?

愛さん:被災された人たちのこととかです。

熊井さん:お掃除してましたね。

愛さん:はい!

熊井さん:昼間はお家に帰ってきて、お掃除してました。

医療支援が必要でした

尚子(しょうこ)さんが最初に不安になったのは、停電のため痰吸引器の電池が切れて、苦しくなるかもしれないということでした。

揺れが収まってからは、ご自宅に戻られたんですか?

尚子さん:いえ、(旧事業所から)近くの湊小学校に移動しました。そこに二晩泊まったあと、自衛隊の人に日赤病院(石巻赤十字病院)に連れて行ってもらいました。

病院にはどのくらいいましたか?

尚子さん:たぶん、10日くらいだと思います。

熊井さん:尚子さんには痰の吸引が必要でした。避難所になっている湊小学校にお話したところ、日赤に連れて行く手筈を整えてくれるということでした。そして、日曜日(3/13)に移動してもらいました。私たち職員は、移動したその日にすぐ、病院に連れて行かれるものだと信じきっていました。けれども実際は二日後に移動したという話をあとから聞きました。
 (小学校に居た2日間)小学校のすぐ隣には看護学校があったので、はじめは準看護師さんや看護学校の生徒さんに診てもらっていたそうです。その後、その方たちは日赤に招集されたので、ヘルパーをやっている方たちに支援してもらっていたということでした。

一般就労先で

当時はどこにいましたか?

今野さん:地震の時は一般就労していたケーキ屋の工場にいました。すごい揺れたので、外の駐車場に避難したんですよね。その時、雪も降ってきました。
社長とか他の職員とそこにいました。
 工場の中はかなり揺れたせいで物が落ちていました。重かったオーブンも1センチずれたし、卵割るときのボールとか、色んな材料が落ちて全部だめになっちゃったんです。
 揺れがおさまったあとに、家族が心配になったから電話してみたけど、連絡が取れなかった。

上品(じょうぼん)の郷へ

駐車場に避難したあとの行動は?

今野さん:揺れが収まった後、すぐ家には向かわないで、働いている人達と一緒にいました。でも、心配だから夜になって家のほうに行こうとしたけど、途中の道には船はひっくりかえっていて油が流れてて行くに行けなかった。一旦、上品の郷(近くの道の駅)まで歩いて行ったのですが。

そして、上品の郷から自宅を目指してまた歩いたということですね

今野さん:すぐ自宅に行かなかったのは、行ける状態かなぁって、一応様子を見ていたんです。とりあえず上品の郷に行ったけど車がいっぱいで。寝泊りする人がすでにいたんで、そこには居れない状態だった。電気は止まって真っ暗な状態だったし、自分も食料もない状態で。
 それで、夜になって暗くて結局家に帰るのは無理だったから、(職場の)工場にまた戻って寝泊りしたんです。朝になってから家に帰った方がいいのかなって思って。

地震発生

東日本大震災当日、立身さんはどちらにいらっしゃったのですか?

石巻市北上町十三浜の自宅にいました。自宅でマッサージの仕事をしていたので。

 

地震発生時、どのようなことを考えられましたか?

考えたというか、地震の大きさはすごいなと思って。普通とちょっと違うかなと思って。今までは地震があっても仏壇とか棚から物が落ちたことは無かったんですよ。でも、物が落ちる音がして。これは後片付けが大変だなと思いました。外に出ると家がミシミシと音がしているのが分かりました。そんな状況なので、「うわー、これは大変なことだぞ」と思いました。落ち着いた頃、お世話になっていた市の社会福祉協議会(以下、社協)の方が車で来てくれたんですよ。「避難するよ」って。とりあえず、ウィンドブレーカーとか、折りたたみの白杖などを持って、高台にある北上中学校に車で避難しました。

津波、避難

そのとき、津波がくるという意識はありましたか?

ない。全然ない。揺れでびっくりしてたんだよね。やっぱり、後片付けのことで頭がいっぱいなんじゃないですかね、恐らく。避難所で誰かが「家が流されている」と言ってて。「家が流されるってどういうことなの?」と思って。何か変な感覚になってね。そのときはもう津波が来てたんだよね。私には見えないから。偶然、避難が早かったというか、社協の人が来てくれてね。来てくれなかったら多分ここにはいなかったでしょう。

 

立身さんのご自宅は海沿いだったのでしょうか?

十三浜なんですけど、ちょっと海からは離れていたんです。以前からラジオなどで宮城県沖地震は必ず起きるとやっていたし、地震は来るんだろうなと思ってました。しかし、あの辺りは川幅が600mほどで、堤防の高さも約8mあります。なので少々の津波が来ても大丈夫という感覚でした。津波の経験は親の代でもない。しかし、海に近い地域ではそういう経験がある。家が山の中腹にあったり、1階を倉庫にして住まいは2階だったり。手すりがない階段があってね。何でかなと聞いてみたら昔津波にやられたと。家にいた人は波にさらわれたらしい。お年寄りの話ですが。たまたまその人は外出中で助かったと。何が何だか分からなかったと。今回だってそうだよね。

 

同じ沿岸部でも集落によって津波に対する意識は違うんですね。

違う。うちの方はそういう津波の感覚ってのはないと思う。だから犠牲者が多かったんです。

 

立身さんのご自宅は流失はしなかったのでしょうか?

流失はしませんでしたが、一階部分は柱を残して流されました。ガレキが片付いた頃に家に行ってみたんですが、柱があってよく残っていたなと。水で浮いたようなんですけど、ガレキが流失を止めた格好でした。

避難所の生活

そんな感じで北上中学校に3日間、社協の建物に2日間、市内に住む甥の家に2週間避難してましたね。社協はうちの集落の山裾にあるんで。目の前まで水は来ましたが、建物は無事だったので。

 

ご自宅から北上中学校まではどれ位の距離なんでしょうか?

2キロから3キロくらいですかね。

 

北上中学校はもともと避難所として指定されていたんでしょうか?

はっきりと避難所として指定されていたかは分かりませんが、宮城県沖地震がいつか起きると言われ続けていたんで、避難所という意識はあったと思いますよ。広いし、車で避難しやすいし、建物もあるし。

 

立身さんは何かあったら北上中学校に避難しようと思っていたのですか?

思ってないです。そもそも津波という頭がないから。

 

北上中学校には飲み物や食べ物はありましたか?

近くの温泉の方が炊き出しに来まして、一口大のおにぎりとか、ウィンナーとか、卵とかが配られました。贅沢が言える状況ではなかったです。

 

立身さん以外に障害をお持ちの方はいらっしゃいましたか?

そこでは私だけだと思います。名乗らないだけでいたのかも知れませんが。周りの方からは常に声を掛けてもらってました。

 

避難所で困ったことはありましたか?

困ったと言っちゃいけないんだろうけど。例えば、トイレはバケツに水を汲んでおいてそれで流すんだけど、自分は感覚でできるから正直苦にならない。でも、周りの人は気を遣ってやってくれるのね。嬉しいんだけど、感覚で生きているもんだからひとつズレると、いろんなものがズレちゃう。そうなるとトイレに行きにくくなってくる。

 

それは、周りの人が気を遣ってくれるのがかえって申し訳ないなと?

そうそう。そうなってしまう。ひとりなら何とか流したりというのはできる。でも、そういう問題じゃないんだなと思って。何か変な意味で気遣ったのかなと。

 

遠慮でしょうかね。

そこから社協の建物に移動して。カップラーメンとか物資がいろいろ届くから。そこで感じたのは、同じ集落の仲間の中で視覚障害者は自分だけなんです。次の日から捜索やら何やらやるじゃないですか。動けないのが自分だけなの。2人組になるとしても、自分と組むと荷物になる。みんな精一杯でそれどころじゃない。そうなって初めてそこにいるのがつらいと思った。後日、横浜に住むもう一人の甥っ子が訪ねてきたんだけど、一緒に横浜に行こうと思いました。申し訳ないと思いながらね。それで横浜の方で4ヵ月ほどお世話になって。白杖とか何も無いので、宮城県の視覚障害者福祉協会に電話したら、横浜の視覚障害者福祉協会を紹介してもらって。電話したらすぐ来てくれることになって。また、そのときに障害者福祉施設の方と知り合ったのですが、そこで箱折りなどの作業を一緒にやらせてもらって。半日作業して、午後にウォーキングとか、ボランティアの人たちと一緒に歩くんですよ。いろんな所を歩かせてもらってね。こんなこと言ったらバチが当たるかも知れないけど充実していましたね。でも、施設ではいいんだけど、住まいの方ではどうしても気を遣ってしまうんだよね。

 

長くいるとそうなりますよね。

だからちょっといろんなことが見えてきたかなと。で、たまたま仙台のアパートに引っ越しできるようになったので、引っ越しました。そこには5年いましたね。仙台に越してからも宮城県の視覚障害者福祉協会とかいろいろな方に協力してもらって助かりましたね。横浜にいても仙台にいても充実していたというか、勉強になったと思います。

地震発生

被災当日、松田さんはどちらで何をされていましたか?

鹿折地区にある職場の方にいました。水産関係の会社で働いておりました。全部で5工場くらいがありましたが全部つぶれてしまって、今は規模縮小による統合ということで自分も解雇ということになりました。

 

会社での業務内容はどういったものでしたか?

出荷、包装、組立て等を行っていました。

 

お勤めはどれくらいの年数だったんですか?

長かったです。11年間でした。

 

お住まいは当時気仙沼でしたか?

鹿折の県営住宅に住んでいました。山の上ですね。

 

揺れ始めた14時46分は、ちょっといつもと違うような感じはしたでしょうか?

そうですね。仕事中でしたので、みんなと一緒にまず会社の前の広場に集合して、部長が点呼確認して全員いることがわかって、それが100人くらいいたんですけども、それが終わってから全員で部長の後について避難しました。

 

会社は低い土地にあったんですか?

そうです。目の前の駐車場に停まっていた車が揺れで波打っていました。何だかめまいがするような感じで、テーブルの下に隠れるとか、そういうのも無理で、立ったまま「いつもと違う、おかしい、揺れが強い」と思いました。その時は、津波が来るというふうにはわからなかったので、まあサイレンとかも聞こえませんので。二階の天井が落ちてくるんじゃないか、つぶれてくるんじゃないかっていう不安から、すぐ部屋を出たいと思いました。窓の外では配管が壊れて、水が噴き出ているのが見えました。本当に「あー、どうしよう」と思いましたが、部長に「今外に出てはだめだ、とにかく大事なもの、貴重品を持って、準備しなさい」と言われ、待機していました。その後、避難をしました。建物がつぶれるんじゃないかっていうことだけが心配で、とにかく逃げることができて安心していました。揺れが収まった頃に自宅に戻ろうと思ったのですが、会社の同僚が15時ちょうどくらいに「危ないから戻ってはだめだ。ここで待っていた方がいい」と声を掛けてくれました。私はなんでだろうと思っていました。まだ津波が来るイメージが無かったので。その理由がわかったのが15時30分くらいです。実際の津波を目の前にして「あ、津波が来たからか。だからここにいろって言ったのか」と理解しました。そのあとは同僚と一緒に流れていく津波を眺めていました。大きな船が海の方からすごいスピードで流れてくるのが見えて、どこまで行くんだろうと思いながら見ていました。他にもいろんなものが流れてきて、家がその形のまま流れてきたり、車も流れてきて。「きっと会社も車もダメだろうな」と思って、みんなで足が震えてきて、帰れないっていうことがわかりました。

 

部長さんと皆さんが避難した場所は、高台だったということですね?

そうです。狭い道なので、車は通れません。そこをみんなで歩いて逃げました。会社からだいたい5~10分くらいの距離です。

 

当時の会社では、津波を想定した避難訓練などはありましたか?

いえ、なかったです。

 

では、ここが避難場所だと決まっていたわけではないんですね?

はい、初めて行きました。部長が他の上司とも相談して、あそこの山に逃げようと決めたそうです。その時に食べ物も準備して、リュックに入れていきました。

 

食べ物は何を持ったんですか?

缶詰です。缶詰を作る会社でしたので、それを持っていきました。

 

松田さんのお住まいの地域では、津波を想定した避難訓練はありましたか?

それもなかったです。

 

では、避難のための知識などはあったわけではないんですね?

わからなかったんです、本当に。何も考えてませんでした。今と昔では、地震があってからでは、本当に意識が変わっていると思います。

地震発生

東日本大震災当日、渡辺さんはどちらで何をされていましたか。

揺れが来た時は、夫婦で名取市閖上の自宅に居ました。当時は70歳で定年退職していたので仕事はしていませんでしたので。

 

避難はどのようにされましたか。

当時は避難情報というのが全くなかったし、耳が聞こえないから自分たちだけに情報が無いのかなと思っていたけれど、近隣の健常者の人も分からない状況だったので、実際に避難するのかどうかというのも判断できていませんでした。

 

ご自宅は海からどの位の距離がありましたか。

800メートルくらいですかね。名取市閖上の日和山まで3,4分くらいのところです。

 

津波が来ることは想像していましたか。

考えてなかったです。

生まれも育ちも閖上でしたが、これまでは地震が発生しても津波はありませんでした。親からも津波の話は言われたことが無かったので今回は本当に初めてでした。地域での避難訓練や、地震に関する知識や情報などというのもなかったです。

 

そんな中、どういう状況で危ないと感じて避難しようと思ったのですか。

やはりこれまでの地震とは違って大きかったし、その後も何度も揺れが来たのでもしかしたら津波が来るかもと…。地域の住民はどうしているのか、近くの田んぼの方へ様子を見に行ったりしていました。隣の人にも避難しようよと促したのだけれど、なかなか行動する感じではなかったですね。話をしているうちにも揺れが来ていて、そのうちに近くに住んでいる兄が安否確認に来たのです。避難しているだろうと思いながら念の為と見に来てみたら、まだ私達が家に居たのでビックリしたみたいで、それで津波が来るからすぐに避難するようにと言われて。

避難状況

どうやって避難したのですか。

慌てて兄の車に乗せられて避難しました。

気づいたら道路に30センチくらい既に水が来ているのが見えて、道路に散乱したブロックや瓦礫に乗り上げながら走りました。

海沿いや孫のいる小学校の方まで車が渋滞していて、中学校の校庭にも車がいっぱい停まっていたので、別な狭い道路を抜け高速道路の下に車を置いて高速道路によじ登って避難しました。

海の方を見たらすごい津波で船や松の木、車などものすごい数が浮いていて大人も子供もみんな流されていてとても怖かったです。

松の木が家にぶつかったりしていて、その勢いや流れがものすごい速さでした。水面の上昇もすごくて、ここも危ないと感じました。

下に停めていた車はまだ大丈夫だったので、再び兄の車に乗って高速道路の下の細い道路を逃げました。内陸部の袋原方面や名取市文化会館、増田中学校へと走りましたが、行く先々が渋滞で車等もいっぱいで停められませんでした。姪が名取市の内陸部山沿いにある愛島団地に住んでいたので最終的にそこまで逃げました。

 

そこにたどり着いたのは何時頃でしたか。

5時頃だったと思います。2時間少しくらいですね。

 

それは早かったですね。姪の住む愛島団地まで行って難を逃れたということですよね。

そうです。息子夫婦や親戚たちもみんな山沿いの愛島団地に避難してきたのでそこで再会して無事を確認することができて嬉しかったです。ここの姪宅で5日間お世話になり、その後仮設住宅に移るまでの間、仙台の中心部にあるお嫁さんの実家の青葉区西勝山で過ごしました。

 

その間生活するにあたり、お嫁さんの実家では困ったことはありましたか。ご飯などはどうしていましたか。

食べ物も少なかったし、水道、ガスも止まっていて、煮炊きはできなかったので食事は思うようには食べられませんでした。ですから、ホームセンターでおにぎりやパン、水、そういったものをもらいました。

あとは市の方から配食が所々にあり、そこからもらっていました。

停電していましたし、家屋は瓦が落ちたりしていたのでブルーシートでカバーしていました。古いお家だったのでだいぶ壊れていました。1ヶ月間お風呂も入れず体はかゆいし、洗濯も出来ず、服の支援が無かったので着の身着のままだったのが辛かったです。

 

お嫁さんの実家の仙台市西勝山周辺にある避難所や支援センター又は公民館などには移ることはしなかったのですか。

移ろうとは思いませんでした。家の方が広いので。

職員の機転

伊藤さんは、被災当日はワークショップひまわり(以下、ひまわり)にいらっしゃったのですか?

はい。

 

避難の際の指揮はどなたがとったのでしょうか?

職員です。ふれあいにも利用者さんがいたので、職員が送迎車に乗せて。ひまわりは絶対に大丈夫だと思ったのでここまで帰ってきて(ひまわりは標高約29mの所にある)。でも、若い職員が多かったので、津波というものは頭になかったんです。警報だといわれてもどれくらいの高さで、命が危険だなんて想像もできなくって。ちょうどずっと海の仕事をされていた事務長さんがいて、その方がこの海は津波がくるといって。それで山側の道を通って帰ろうということになったんです。その時、海側の道から帰ってきたら、きっと送迎車は流されていたと思います。なので、いろんな年齢層の職員がいてバランスが良かったんだと思います。その方のおかげで職員、利用者全員無事にひまわりに帰ってくることができました。

 

地震の揺れはどうでしたか?

今まで経験した事のないような揺れでした。事業所内にあった机やコピー機が走る凶器となりましたね。動くというより走る。利用者さんは泣き叫ぶし、机の下に隠れてと言っても全く動けない状態でした。地震があんなに怖いものとは思ってなくて。置いてあるもの全てが凶器になる。ロッカー、コピー機、机、すべてが走る、動くんじゃなくて走るんですよね。

 

地震直後、ひまわりには利用者さん、職員さんで何名くらいいたのでしょうか?

ここには女子が12名くらい、男子はふれあいの方にいました。職員は私と所長がひまわり、あとはふれあいにいました。

 

ライフラインはいかがでしたか?

地震直後から全てストップしました。

 

情報の取得はどうやって?

車のエンジンをかけてラジオを聴きました。そこである程度の被害状況は分かりました。ですが、ガソリンを大事にしないといけないということで、あまり聞きませんでした。所内にラジオもなく情報というものがなかなか入ってこなかったです。

地震発生

足が悪くなったのは、小さい頃からなんですか?

もともと、小さい頃からですね。もうそれこそ発病したのが1歳かそこらへんくらいで、やっと病気が見つかったのが小学校2年生の時です。SMAって、脊髄性筋萎縮症っていうだんだん筋肉が衰えていくっていう国の難病指定になっている病気なんですよ。20歳ころまでは歩いてたんですけど、一回転んで怪我してから、危ないっていうんで車いすに乗ってからは立てなくなっちゃって。

 

そうなんですね。3.11当日はどこで何をされていましたか?

デイサービスにいたんです。石巻や矢本、東松島の方が来る障害者のデイサービスなんですよ。自宅から車で5分くらいの所です。住所でいうと東松島の赤井地区。みやぎ東部循環器科っていう病院のすぐ横です。

けっこうそこの津波は1メートルくらい来たんですよ。デイサービスだからバリアフリーになってるんで、低いんですよ。道路と同じ高さなんで。いつも15時になると終わりなんですけど、その時はちょうど卓球バレーやってたんです。ただ、その日は私ちょっとできなかったんで、リラックスモードに入ってたんですよ。「もう少しで帰れるなー」なんて思いながら、ちょっとウトウトして。そうしたら一斉に携帯が鳴り出して、揺れて。

石巻西高の所に老人ホームがあるんですけど、最初はそこに避難しようって話になったんですけど、車を用意したりなんかしてるうちに外から「津波きたよ」って声がして。しようがないから、デイサービスの所長が東部循環器科の方に走って行って「避難してもいいか」って言うのを聞いてきて。そこから東部循環器科に全員避難したんです。30~40人くらいですかね。避難の前からそこの駐車場に津波が来てるんですよ。道路に波が来て、そこを職員が一人ひとり運んで、東部循環器科の建物の中に入れて。少し建物自体が高くなっているので、車いすも10台くらいあるのを全部運んで、歩ける人は歩くっていう感じで。

 

車いすは持ち上げて運んだんですか?

そうですね、3、4人くらいで水の上まで。人を載せたまま。

 

その時の津波の高さはどれくらいだったんですか?

まださらっと、職員の靴がちょっと浸かるくらいです。何も来てなければ車いすでも行けたんですけど、水も増えてきていたんで。

 

時間はどのくらいだったか覚えていますか。

石巻の方って、けっこう遅かったんですよね。定川(じょうかわ)っていう45号線沿いの川が決壊して、その水が来たんですね。15時過ぎくらいかなぁ。

 

その間職員さんが避難をどこにしようかという話し合いがあったんですね。

あっという間ですからね。情報を得るっていう手段もほとんど無かったんで。

 

その時点でラジオなどは聞けていましたか?

ラジオは無かったですけど、その時はまだ携帯電話が使えていたんで、震度いくらとか、大津波警報が出されたとか、福島で7メートルっていうのは私覚えてるんですよ。ただ、宮城県沖がどうのこうのっていうのは全然わかんなかったですね。

 

情報収集は基本的には携帯電話ですかね。

でしたね。ただ、職員の人が車のラジオを聞いてたかもしれないですけど、どっちかというともうみんなパニックになってたんで。倒れる人なんかはいなかったんですけどね。本当は私なんて通常は外に出る時はベルトしてるんですよ、体支えるのに。ちょっと揺れたってバタンと倒れちゃうので。その時はリラックスモードに入ってたからやってなかったから、自分の体を支えるのが精いっぱいだったんですよ。そしたら後から聞いたら「飛川さんのことは職員さんが支えてたんだよ、後ろで」って。だから何とかなったんだって気づきました。

 

すごい揺れでしたもんね。

すごい揺れだったですね、もし一人でいたら完全に倒れてたでしょうね。

 

地震が起きた瞬間、ご自身は津波のことについて直感されましたか。

津波…何日か前の地震でも津波がありましたよね、だから「あんなもんだろうな」っていうのはありましたけど。「ここまでは来ないだろうな」って。海がまず見えないんで。地図で見ると直線で1キロも無いんですけどね、海からは。ただ、異常な揺れだったんで「何かはあるよな」とは思いましたけど「津波はここまで絶対来ないよな」っていうのはありましたね。

 

過去に津波の経験がある地域なんですか、この辺りは。

ないですね、うちのおふくろの実家がここからすぐ近くなんですけど、それこそチリ地震津波だってこっちまで来ないし。石巻って津波って本当に川の近く、北上川の周りとか。そういう所ならあるってくらいは聞いてましたけど。市場でもカゴとかが流されるっていう感じしか想像してませんからね。

 

やはり内陸ではイメージしにくいところですよね。

そうですね。全く津波ってなかったですね、私の頭の中では。すぐそこのデイサービスも川がすぐ横なんですけどね。

 

その川から水が来たと言うのは、最初にその川に津波が来てたんでしょうね。

そして私たちが東部循環器科にみんな避難して1階にいたんですよ。でも私らが避難したその待合室がガラス張りで、外が見えてたんです。そしたら45号線を水が流れて車も木も流れてっていうのを見てたんですよ。「ここ危ないんじゃない?」ってなって、2階に移ることになったんですが、エレベーターが停電でもう動かないんですよ。それで一人ひとり担架で運ばれて、歩けない人は2階まで上げてもらいました。で、1室借りてビニールシートを引いてみんな寝てるっていう状態で。毛布とかはいっぱいあったんで、一人ひとりに掛けてもらって。暖房は何も無くて。でしたけど、私はあんまり寒いって気はしなかったんですよね。結構狭いところにぎゅうぎゅうに詰められてたんで。下が床で硬いからあちこちで「あー痛い」なんて聞こえてましたけど、それどころじゃないよなっていう感じでした。

 

病院も停電していたんですか?

してましたね。おそらく人口呼吸器の方のための補助電源なんかはあったんでしょうけど。

 

東部循環器科には避難されて、何日間かいらしたんですか?

いや、その一晩だけですね。結局、次の日からすぐに病院を使うってことで。やっぱり相当数の患者さんが来るだろうということで、朝明るくなってから移動することになりました。夜のうちに、職員が車を何台か津波が来ないところに持って行ったみたいなんですよ。いざというときの為に。2台くらい残ってたのかな。その車で、最初に行く予定だった老人ホームに行ったんですけど、そこに着くまでがいつもの道路が走れないんで、瓦礫をかき分けていくような感じで。丸太がすごかったからね。線路の上まで。近くの貯木場の木が流れてきて。

船も流れてきているし、デイサービスには車が1台突き刺さってました。

どれくらいの高さの津波がきたんですか。

聞いた話だと、デイサービスの方で1mくらいは津波が上がったそうです。立ってる人なら上半身は出てたでしょうけど、車いすの人はもう駄目だったでしょうね。

 

老人ホームに到着してからのことを教えてください。

老人ホームの方に着いたものの、朝の時点で携帯がつながらなくなっていて、自宅がどうなっているかもわかりませんでした。震災当日の朝、角田に勤めている弟がいつもは電車通勤なのがたまたま車で出勤していたんです。金曜日で遅くなるかもしれなからということで。で、地震直後に角田を出たけども、帰ってきたのが12日の朝でした。一度家に寄って、病院まで上着や飲み薬を老人ホームまで持ってきてくれました。矢本の石巻西高近くで「ここから先は車が入れない」と言われて、車を置いて、そこから水の中を歩いて家まできたんです。

 

ちなみにお母様は当日どちらに。

最初、私を迎えにくるとこだったんですよ。だけど「津波がきた」っていうので車で引き返して、近所に津波が来たことを叫びながら家まで戻ってきて、近所のある一軒の家にみんなでまとまって避難してたんですよ。

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