自宅での生活

お話:飛川義親さん(男性/当時40代/SMA[脊髄性筋萎縮症])

ご自宅にはどれくらいの津波が来ましたか?

ここは、床に上がらないぎりぎりくらい。玄関までは入らないくらいです。なので家の中は大丈夫でした。ただ物置の方はたっぷり入って、機械ものは全滅でした。

 

翌日もまだ水は残ってましたか?

水自体は引いたみたいですけど、汚泥がすごくてね。私も老人ホームに行って「今晩はここに泊まるのかな」と思っていたらおふくろが夕方に迎えに来たんですよ。実際は東部循環器科に1泊、老人ホームは半日くらいですね。そこから帰ってくるのに道路が通れなくてあちこち回りながら戻ってきました。何体かの遺体はブルーシートにくるまれてありましたね。うちは家の横の川があったから、そこで水が止まって、直接は水が来なかったんですね。

 

距離はそんなに離れていないけども、川のこちらと向こうでは全然被害が違うんですね。

そうです、全く違います。川の向こうの人たちはかなりの方が亡くなっていますから。住所は同じ門脇地区なんですけどね。川一本で全然違いますね。

 

食べ物などはどうしていましたか?

冷凍食品や米はありました。あとお隣の方がスーパーを経営している人なんですよ。なので、冷凍食品で水に浸かったけど中身が食べられるような物をかごにいっぱいいただいて。

 

ライフラインはどうでしたか?

水と電気はダメでした。ガスはプロパンだったので、リセットボタンを押して使うことができました。ストーブも反射式のものを1台ご近所から借りて、上にヤカンを載せて使っていました。3人で居間に集まって過ごしていました。

 

部屋の中の家具などは大丈夫でしたか?

リビングはわりと大丈夫でした。台所の食器棚は倒れてきて、冷蔵庫に引っかかってたり、2階にある私の部屋の本棚は倒れてガラスがめちゃくちゃに割れていたりしました。なので、自分の部屋にいたらかえって大変でしたね。震災の前までは、家への出入りは電気リフトだったんです。スロープは震災後に付けたんです。震災前の状態だと下りることは何とかできたけど、上ることは絶対無理でしたからね。電気のありがたさを痛感したっていう感じですね。

 

電気はすぐに復旧しましたか?

3月の末ですね。25、6日くらい。水道もほぼ同じでしたね。茶色い水でしたけど。

 

飲み水なんかはどうしていたんですか?

母と弟が自転車で汲みに行ったり、日赤病院の方まで給水車の水をもらいに行きました。

 

この辺は来なかったですか?

歩いて10分くらいの中学校には来てたようですけど、いったん家に避難してしまうとなかなか行きにくいんですよね。「いつも来ていない人が来てる」みたいな感じになるのが気になって。だから物資とかも「取りに行けばもらえるんだよ」という話も聞きましたけど、一切そちらからはもらわなかったですね。

 

この辺の方は自宅にいらした方が多いんですか。

この地域はみんな流されないでいたんで、自宅にいましたね。うちが一番低いんですよ、車いすのスロープを設置したりする関係で。なので、どこの家も給湯器をやられることはなかったんですけど、うちだけはリフトも何もかもやられてしまいました。

 

この地区の汚泥の処理は、ご自分たちで?

そうですね。12日は自宅に戻ってきたけれど、汚泥が酷すぎて車から降りられなかったんです。車内で一晩過ごしました。それで、13日に車いすが1台分通れる泥かきをしてからやっと家の中に入りました。お昼過ぎくらいですね。床にごみ袋から何からを敷いて入ったという感じですね。私も車いすに乗ったまま、1週間はベッドに行かなかったですね、ずっとこの感じで。

 

やはり余震が怖い?

余震が怖いっていうのもありますし、もしベッドに寝たら、起きるまでに津波が来ちゃうよなっていうのがありましたんで。逃げるってなると、私たちは時間がかかりますからね、ベッドから車いすに乗ってってなると。それだけで10分20分はかかりますからね。本当にこの居間から一歩も出ないっていう感じでしたから。

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