くじらのしっぽ

お話:社会福祉法人 石巻祥心会 障害福祉サービス事業所 くじらのしっぽ
利用者 小川絢子さん(女性/当時29歳・知的障害)
管理者 阿部かよ子さん 職員:多田剛優さん
グループホーム くじらのしっぽ ひまわり 生活支援員 阿部安子さん

作業中の地震

ちょうど、パン作りが終わった頃でした。

当時、小川さんはお仕事をされていましたか?

小川さん:はい。パン作りをしていました。

何人ぐらいでやっていたのですか?

小川さん:だいたい4,5人くらいですかね。

地震が起きた時、どのようにみなさん身を守ったんですか?

作業中で、色々危険物とかあったと思うのですが、みんなの様子はどうでしたか?

小川さん:揺れも強かったので、みんなは台車にしがみついてた人とかいたし、職員の腕をつかんで一緒に外に避難したりといった様子でしたね。

小川さんは、職員さんと一緒に外に出ましたか?

小川さん:動けなくなった利用者さんと一緒に、すぐ逃げました。

この時、怪我とかは無かったのですか?

小川さん:無かったですね。

周りの様子はどうでしたか?

小川さん:物が落ちてたり、書類が下に散らばってたりしてました。

高台の避難所

牡鹿半島の高台に建つ保健福祉センター「清優館」。その一角に「くじらのしっぽ」があります。

どちらかに避難場所を構えたんですか?

多田さん:今使っている作業室のところで、寝泊りなどの生活をしていたんですよね。避難してきた一般の方々は、清優館内の各部屋やホールを使っていて、分かれていたようです。
安子さん:最高時、ここ(清優館)は500人いたそうです。避難した人多かったよね。(一般の人も含めると)
(震災時、多田さんと、安子さんは別の事業所にいらっしゃったそう)

滞在期間はどのくらいこちらで避難していたのですか?

多田さん:夏くらいまでいた?
小川さん:はい。

体調を崩されたりとかは?

かよ子さん:体調崩すって言うよりは、メンタル面のほうが大変でしたね。ここも、ごらんのとおり高台の一つしかないので。いっぱい人来たよね。
小川さん:はい。
かよ子さん:ドア一枚出ると、知らない人たちがたくさんいて、いつもと違う環境だったよね。

心ない言葉

避難所でなにか問題があると疑われるのは障害者。

かよ子さん:障害をもっている人が過ごしてる場所とは知らない人が地域にいっぱいいました。
だから、なんでここ(事業所の作業室)だけ特別扱いされてるんだろうって不思議がられていて、そこからトイレで問題があったりとか、ルール上、きちんとやってない人を見つけると、「こんな風にしたの、くじらのしっぽさんの人たちじゃないんですか?」って言われたりもしてました。
色々なマイナスな言葉を聞いて利用者さんが嫌な思いをするのも嫌だったので、たまたまうちで別棟の作業場にトイレもあったし。あっちに歩いていくのひどいけど、夜も誰か付き添って行って使おうねと話し対応してました。でも、そうしているうちに、周りの方々もみなさん(利用者)の事を少しずつ、わかってくれました。

何かきっかけがあったとか?

かよ子さん:きっかけは、(避難所である)館内の運営をするのにルールを決める、朝に全体で行われる避難所ミーティングでした。みんなで使うところだから、ルール決めすることになったんです。私たちも、くじらのしっぽとしてそこに参加しました。私たち掃除などやれること、みんなと同じことできるっていう意思表示をして、一般の方と一緒に行うようになった結果、偏見とか、誤解も無くなっていきました。
でも、「普通にしゃべれるんだ」って言われますよ。障害を知らない人にはそう言われて、ほんとにびっくりしますよ。
障害を持っている人は、すべて助けが無いと生活できないというイメージを持っている人が多くいることがわかりました。
例えば、「順番だから並んでって言うと、一般の人と一緒に並んで待てるんだ」という理解から始まって、(避難所に)救援物資来たら、分担する係りの人足りないから手伝いの声を掛けられることもありました。例えば職員と利用者、ペアで行って手伝ったりするうちに、少しずつ理解してくれてる人たちも居たので、その人たちから、声を掛けて貰ったりして、徐々に偏見も無くなっていったことが嬉しかったですね。

夢中になってがんばってくれました

極限状態の中、(利用者さん)みんながそれぞれの役割を担ってくれていたのです。

職員さんが、避難所運営に携わってるのを見てて、やらなきゃって思いだったのですか?

小川さん:うーん。

かよ子さん:たぶんね、考える間もなかったと思います。私たち(職員)は、(障害が)重度の利用者さんも抱えていて、まず、そっちを守んなきゃいけなかったんです。自分の家族の安否もわからないし、肢体不自由の利用者さん、車椅子の利用者さんのご家族もどうなってるかもわかんない。そういう中で、小川さんとか、一言二言の声がけで動いてくれる利用者さんに、手伝ってもらいました。一回で動いてくれる人たちは、私たちの話を必死に聞いてくれました。
 みんなの変わりにやらなきゃいけないぐらいの切羽詰まった状況だったと思います。重度の利用者さんたちのこともあるから、自分たちだけは迷惑かけられないっていうか、そういうことは思っていたと思います。彼女(小川さん)も地域に親御さんや兄弟もいたし、心配だったと思うんです。でもそんなことは言わず、表情ひとつ変えずに懸命にやってくれました。

避難所の閉鎖

なかなか法整備が整わず、福祉仮設への引越しは被災者の中で、最後になりました。

避難所の滞在期間も夏くらいまでいたと伺いました。

かよ子さん:私たちが一番最後までいました。
まず一般の人たちから仮設住宅に引っ越ししていきました。徐々に避難者が減っていき一般の方々がすべて避難し終わると、まだ私たちは作業室で避難生活をしているのに、清優館の避難所が解除となり驚きました。

安子さん:もう閉鎖になったんだよね。

多田さん:その時まだ仮設のグループホームも出来てなかったんですよね。

かよ子さん:仮設グループホームが完成して、引っ越したのは9月でした。その年、秋に大きな台風が直撃し、ちょうど二日前に引っ越しして、ようやく落ち着いたところだったね。なんとか、自分の部屋で寝られるようになったねっていうときだったね。

小川さん:はい。

かよ子さん:大きな被害は無かったので安心しました。けど、彼女たちはすごい我慢したと思いますね。

小川さんは普段からがんばる方なんですか?

かよ子さん:うん、仕事ね。みんなの手伝いもしてくれるし。

福祉仮設

小川さんが以前住んでいたグループホームは、海に近かったため、津波で浸水。

安子さん:仮設の施設(グループホーム)が出来たのは9月か、8月くらいでしたね。

多田さん:もともとは町(鮎川浜地区)のほうにグループホームがあったんです(絢子さんが住んでいた)。仮設の今住んでるグループホームが出来るまでは、住む場所が無かったです。一般の方々の仮設(住宅)から順番に出来ていったので、実際に7ヶ月以上は、避難所生活だったよね。

みなし仮設ですか?

多田さん:仮設のグループホームですね。

安子さん:市内のほうだと結構ありますけど、牡鹿地区では一軒のみですね。

地域の人に配ったパン

万が一のために、作業で作っていた食パンを冷凍庫いっぱいに保管していたことが役立ちました。

かよ子さん:何かあった時のために、パン作ってたんだよね。

小川さん:はい。

かよ子さん:その日、作って終わるころに地震がきました。15時までの作業だったんです。そのパンをその日の夜から、お年寄り、子供、小学生、中学生の順から配りました。清優館に避難してきた人たちは、それをその日から食べて凌いでもらったのかな。
そして、「あの人たちから、パン貰ったんだよ。」って後から知ると、色々言って来てた人たちも、「ごめんねって。自分たち、いろんなこと言ってしまったけど。あんたたちに最初に助けられたんだって。」声を掛けられて。

普通、指定の避難所なら、アルファ米とか、水とかがあったのでしょうけどね。

安子さん:ここの、清優館は備蓄は無かったと思いますが、倉庫には毛布があり寒さはしのげました。

そのパンはどういう種類だったのですか?

かよ子さん:三斤の食パンです。百本ぐらいは(冷凍庫に)ありました。

避難所から避難してきた障害者

自分も避難してきて弱ってるのに、ちょっと弱い人たちに手を差し伸べることっていうのは難しい。

多田さん:自分は震災時、(石巻)駅前の障害者相談所にいたんですけども。震災後、仕事で回ってるときに、あるご家庭に行ったんです。一階はもう(津波被害で)何もなくて、二階で重心(重度心身障害)の方が、生活してたんですよね。
それで、その方の親御さんと話した時、(発災時)最初、学校が近くにあるから避難したらしいんです。でも、その日の夜に(避難所に)居れなくなって、車の中でずっと過ごしてたそうなんです。重心の子なので、夜、(症状が出て)騒いだりしたことで、周りからの心無い言葉もあったみたいですよ。でも車の中だけじゃ厳しいとなって、一回家に戻ったそうなんです。そうしたら、下はだめだけど、二階に何とか上がれたから二階に上がったんだそうです。そういう話を聞いて、やっぱり人間は、ある程度のつらい状況下になると、この方は障害持ってるから大変だよねっていうよりもまず、うるさくて寝れねんだって言ってしまうのかな。

かよ子さん:そう、自分になってしまうのね。

多田さん:知らないって怖いって。ほんとにそういう意味なんだなって。

安子さん:でも、ほとんどがこれだと思うよね。

多田さん:だから、避難所に行けなかったっていう人がほんとにいっぱいいた。

かよ子さん:だから、そうやって非難されたり、何かわからない視線とか、何かわからない空気感で、その場(避難所など)にいられなくて、車に居ましたとか、家、いつ倒壊するかわからないけど、そこにしか居られないんですっていうのは、ほんっとにね、キツイだろうなー。

支援物資

なかなか支援の手が入らず、あきらめムードの中でも、声を上げることは忘れませんでした。

仮設が完成した後、物資が届いたりはしたのですか?

かよ子さん:物資はね、利用者さんが仮設のグループホームに入る際に必要な7点セットみたいなものは申告はしてたので、頂いたんです。
ただ、(仮設の)グループホームの後ろに一般の仮設住宅があったんですけど、そこに一軒ずつ物資が届いても、グループホームには来なかったんですよ。地域の皆さんには物資が届いたと教えられても、グループホームには声を掛けられなかったんですよ。こんなに立派な建物があるのに。

小川さん:ジャガイモとか、みかんとか、後ろの仮設の人たちだけで。

かよ子さん:それが、欲しいとかでないけど。

そうですよね

かよ子さん:グループホームの窓からすぐに一般の仮設住宅の玄関が見えるので、物資が運ばれているのが見えるんです。だからそこで、ちょっと嫌な思いはしたのかなって。

そういう思いをした人たちはどういう人だったのですか?

かよ子さん:地域の名簿に載ってなかったの。それで「うちは何区の何班なんですか!」って聞いて。名簿に載ってないと地域の情報が伝わらなし、いざという時のために地域の方々とコミュニティーを築いていないと、地域での生活は難しいので、名簿に載せて貰いました。そういう形で関わっていくうちに、地域との連携が取れてきました。

小川さん:でも、仮設のグループホームに引っ越してから2ヶ月くらいは、物資が来なかったんですよ。

物資はなにが来たのですか?

小川さん:野菜とか来て。

かよ子さん:(利用者の)皆さん住む場所が昔と違うところになるので、区長は誰なのとか、近所の人とのコミュニケーションとか不安が多くあるなかで、「何が・・・となりと違うの?」という言葉も聞かれてました。なんか一般の仮設住宅とは違う扱いみたいな感じなんですかね。

わかめの芯抜き

地域の情報誌をきっかけに、人手不足に悩んでいたわかめ業者さんから声がかかったんです。

かよ子さん:でもね、(震災の影響で)何も作業が無い中で救われたのが(事業所がある建物の)館内の掃除を委託してくれた業者さんが、みなさんががんばって仕事をしている姿を見て、ほんとに必要以上な報酬で委託してくれたんですよ。

それはいつ頃のお話ですか?

かよ子さん:震災後平成24年度でした。
私たちもどうにかしなきゃいけないと。それで利用者さんに「ちょっと皆さん若いときなにやってきたの」って聞いてみたんです。
そしたら、わかめの芯抜きやったことありますっていう話になって。たまたま知り合いの方が、ボランティアで地域の広報誌やってたんです。それで、このくらいの枠でいいから、「くじらのしっぽ、わかめの芯抜き作業できます。ご相談ください。」って、記事に載せてもらったんです。

多田さん:そうしたら、(連絡が)来たんですよ。そこから紹介してもらって「体験してみる?」って言ってくださったんです。自分が、実際に体験しに行かせてもらいました。

かよ子さん:わかめ業者さんも再建したけども、働き手がいなくなったそうです。それで、なんかいい具合にマッチングしました。ただ、私たちには条件があって、その現場までは行けませんよって言ったら、わざわざここ(事業所)の作業場まで、わかめを持ってきてくださったんです。そして、出来ましたって連絡すると、とりにきてくださるんです。そこから、毎年この作業場でわかめの芯抜き作業してるんです。

かよ子さん:この震災は大変だったんですけれども、得るものも多かったですし、考え方が変わりました。牡鹿地区は、人口の流出とかがあって、ますます高齢化してきています。わかめの話で言えば、我々が担い手っていうか、やんなきゃいけない。みなさんと一緒にね。

くじらのしっぽのいま

震災から8年経ったいま(取材は2019年2月)、管理者の阿部かよ子さんにくじらのしっぽの現在について伺いました。

阿部施設長

阿部かよ子さん

 

くじらのしっぽでは今、どのような作業をされているのでしょうか?

清優館(※1)の清掃や授産品作り、そして現在力を入れているのが、金華塩と呼ばれる天然塩作りですね。地域の皆さまの力を借りて作り上げた製品なので、来年度はもっと発展させたいと思っています。

 

金華塩作りは震災前から行われていたのでしょうか?

震災前から作ってはいたのですが、コストの面で折り合いがつかず一旦作るのをやめていたんです。しかし、震災で何も作るものがなくなった時、もう一度塩を作ろうということになったんです。釜作りなど準備を一から始めたのですが、燃料や海水の調達方法など数々の問題が発生しました。そこで、地元の製材所や漁業協同組合の方に相談したところ、私たちの塩作りを通して地元を活性化したいとの思いに共感して下さり、ご協力をいただけることになったんです。

 

震災の前と後で利用者さんに変化はありましたか?

もともと利用者さんは前向きな方が多く、職員の方が勇気づけられたり、勉強させられたりしていたのですが、震災を経験する事で逆境に負けないぞという気迫のようなものが芽生え、大きな力になっているような気がします。

 

利用者さんは精力的に活動されているようですが、モチベーションになっているのは何だと思いますか?

現実的な話になりますが、やはりお給料ですね。封筒で手渡されるお給料が彼らのモチベーションになっていると思います。以前はお給料の使い方もあまり計画的ではなかったのですが、現在は野球や映画を観るために貯金していたりと計画的になっています。どう使うかを考えるのが楽しいみたいですね。

 

くじらのしっぽの今後の課題や目標を教えてください。

震源地が目の前ということもあり、私たちの経験を発信していきたいと思っています。くじらのしっぽとしては、牡鹿半島唯一の障害者福祉事業所でもあるので、利用者さんが安心して働き、楽しく過ごせる事業所を目指したいと思っています。その結果、地域産業の担い手になれればと思っています。

 

いま必要なものは何ですか?

ここは石巻市の中心部まで1時間かかるような地理的制約のある地なので、流通の部分で不便を感じることがあります。その問題をクリアできれば、販売促進や商品の開発につながるのではと思っています。

 

ホームページを活用して受注につなげていらっしゃるようですが、今後も力を入れていくのですか?

これは本当に大きな存在で、ホームページを通して定期的に商品を購入して下さる方がいらっしゃいます。お顔は分からないのですが、お電話をいただく度に昔からの知り合いのようにお話をして下さいます。特に「塩蔵わかめ」を気に入っていただいているので、絶対に切らせないし、商品に嘘があってはいけないと思っています。

 

全国のみなさんにアピールしたい事はありますか?

震災から8年が経過しましたが(※2)、いま一番怖いのが震災記憶の風化です。障害をお持ちの方たちが震災で不安な日々を過ごしたのは間違いありません。この震災の記憶を風化させないで欲しいのが一番の願いです。

 

くじらのしっぽの皆さん

 

※1:くじらのしっぽは保険福祉センター清優館の中にあります。

※2:取材日は2019年2月。

 

 

小川絢子さんのいま

小川絢子さんに近況について伺いました。

小川絢子さん

小川絢子さん

 

一人暮らしを始めたそうですね?

はい。くじらのしっぽから車で10分くらいのところに住んでいます。一人暮らしを始めて1年ちょっとになります。

 

生活はどうですか?

お店が少ないので買い物は少々不便ですが、静かなところなので住み心地はいいですね。

 

食事はどうしているのですか?

自炊していますが、週2回来てくれるヘルパーさんにも作ってもらっています。

 

得意料理は何ですか?

野菜スープやチャーハンです。

 

ご近所とのお付き合いはありますか?

仲の良いおばさんがいて、地域のお祭りなどがあると誘ってくれます。

 

一人暮らしで楽しいことは何ですか?

基本、時間は自由に使えるので、作品展に出品する作品作りに没頭したりしています。

 

今住んでいる地区は避難訓練はありますか?

1年で2回くらいあります。地震と津波の避難訓練です。

 

避難場所は把握していますか?

家の近くに公民館があるのですが、そこが避難場所になっています。歩いて1分もかかりません。

 

何かあった時、小川さんに声を掛けてくれる人はいますか?

います。

 

その方とは普段どのようにコミュニケーションをとっていますか?

地区の方は普段あまり外には出ないんですが、会った時は挨拶するようにしています。

 

最後に小川さんがすすめるくじらのしっぽの商品は何ですか?

最近できた「かき飴」や、「金華塩」、「バジル塩」などですね。塩はみんなで一生懸命ゴミ取りをして作りました。ここの塩はちょっと甘みがあっておにぎりとかにも合うんです。おいしいですよ。

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