小山賢一さん

お話:小山(おやま)賢一さん(男性/当時30代/盲ろう者[弱視難聴])

地震発生

震災の当日、2時46分に小山さんはどちらにいらっしゃいましたか?

一人で自宅の離れの2階の部屋にいて、テレビを観ていました。そこにあの揺れが来ました。もうハンパない揺れだったので、このまま建物ごと自分もダメになると思いました。

 

やっぱり、いつもの地震とは違うと思いました?

もう一気にガタガタが来たので。身動きが取れない。咄嗟に動いたのが良かったんですけど、5歩も歩けば部屋の入口のドアの壁のあるところに入れたので。そこでの時間は本当に長かったです。

 

2階から1階までの避難というのはどのようにされたんですか?

自宅ですので感覚も慣れています。今より視力がもう少しありましたので、2階から庭に出て行くのはできました。

 

地震の瞬間、津波という意識はありましたか?

はい。私の場合はもともと地域が昭和の津波、チリ地震津波が来た地域で、小学校の頃から避難訓練は地震と津波のセットで行われていました。それと、2日前にも地震がありましたよね。その地震でも1mくらいの、船がひっくり返りそうな津波が来たと聞いていたので、間違いないなと。5、6mくらいのは間違いなく来るなと直感しました。ですが、15、6mを超える津波が来て自宅が流されるとは思いませんでした。

 

 

被害状況についてお聞きしたいのですが、建物は全部流されてしまったということですか?

自宅も納屋も土台を残して全壊流失しました。

 

ご家族はご無事でしたか?

家族は、それぞれ出勤していて、それぞれの場所で被災しましたが、無事でした。それが何よりでした。みんなそれぞれが流されたと思っていたので。震災発生直後から携帯電話もつながらず、直接、会うまで数日から一週間、安否が確認できないという状況でした。地元に入る情報は悲観的な情報が多く、家族の目撃情報が遠くから歩いて地元に戻った知人から聞いても、具体的な状況がわからず、直接会って、はじめて安心した、あのときの思いは忘れられません。

避難所での生活

小山さんがお住まいの地域だと、避難所というのはどちらになりますか?

大きな地震が発生したときは、まずは高台へ避難するように言われていました。小学校でも津波を想定して、山を登って高台に避難していたようです。なので、私たちが利用した高台の避難所にたくさんの人が集まりました。

 

避難所に集まった人達は何人くらいいましたか?

200人くらいはいたと思います。ギュウギュウ詰めでしたね。私の居住する集落だけでなく、周辺の集落で自宅が流された方々も避難してきましたし、高台の自宅に居た人達も危ないので、みんな避難所へ集まり、一緒に過ごしました。もう、ずっと揺れっぱなしでしたからね、あの晩は。

 

そこにはどれくらいの間いらっしゃいました?

5月末なので、2ヶ月半はいたと思います。長かったです。

 

避難所で、ご家族やお知り合いの方以外で声をかけてくれる人はいましたか?

避難所の中では誰かしら声をかけたり、私の食事の配膳をしてくれました。その場で食事を受け取って、近くで声をかけてくれた方と話をしたりすることはありました。ただ、私自身は、見えにくい、聞こえにくいため、周囲の状況がまったくわからないので、こちらから声をかけられないんですね。なので、自分が動きたくても動けないことがありました。

避難所の課題

大勢の方が避難されてきたなかで、困ったことやトラブルはありましたか?

当時は今を過ごすだけで夢中になっていましたので、意識しなかったり、よく分からないけどストレスになっていたり、いろいろあったのですが、一番困ったのはトイレです。トイレに自由に行けない。見えないですし、一人で移動はできませんし。朝8時頃出かけた家族が帰ってくる夕方5時頃までずっと我慢したこともありました。もちろん、その後見えなくても一人で移動ができるルートを確保し、避難所の近くの民家のトイレを借りたり、避難所生活の環境も少しずつ落ち着いてきてトイレにも行けるようになったのですが、1ヵ月くらいはかかったかもしれません。

 

その他にも困ったことはありましたか?

そうですね。プライベートな空間がないというのも困りました。常に誰かに見られている状態、もちろん知っている人が集まっていて、お世話になる立場でもあるんですが、何というか心理的自由がないというか。誰かに気を遣っていただいてありがたいのと、常に見られているのとで、ちょっと複雑なところがありました。なので、下の民家のトイレに行く時に、何ともいえない解放感のようなものを感じたことがありました。トイレが唯一のプライベート空間じゃないけれど、用を足さなくてもそこにこもったこともありました。

 

やはり一人になれる空間というのが必要だったということですね。

周りの視覚障害の方からも、プライベート空間は特に意識されていると聞きます。結局、自分が見えていないから、状況が分からないんです。個室であればやはり落ち着きます。かと言って、一人ではいられない。誰かの知恵や助けも必要。そのあたりの葛藤というか、複雑な思いはあります。もちろん、お手伝いして頂いたり、気配り、目配りしてお世話をして下さった方々、私はお世話になった身ですので、ありがたい、その一言につきますけど。それとは別に、やはりプライベート空間ということに関しては大変でした。それと、もう一つ困ったことがありました。

 

何でしょう?

食べ物の量のことです。支援で頂いている自衛隊のお弁当が届くようになってから、お年寄りの方々が自分の食べられる量だけ食べて、あとは残すということがちょっと心理的にできない状況だったんですね。頂いたものをこの状況で捨てるというのはできないから。無理して頑張って食べている人もいました。私でも量が多いなと思ったくらいだったんです。でも、とりあえず全部食べなければ、ゴミにもなるし、食べきってしまえば片付けやすいし。しばらく経ってから、無理して食べていたおばあさんがポロっと一言「多い」とつぶやいていて。そこで、ちょっとこれだけの量はお年寄りは食べられないなと気づきました。「気にしなくても残してもよいですよ、体にもよくないし。全然悪いことじゃないから。」と話しました。そうしたら、次の食事からは残すようになりました。最初のうちは、出されたものを大事にしなければならない、粗末にできない、そういうプレッシャーみたいなものがあったと思います。こんなことをいうと逆にみんな支援してくださってるのに何を言うんだという話になるかもしれないですが、普段は食べられる量をその人に合わせて食べている、それができないとちょっと困る。普段の生活では全く意識しないことですね。

 

食べ物の問題と聞いて、みんな足りなくて、すごく少なくて、どうやって分けようかというイメージが浮かびましたが、正反対でした。一人ひとりの食べられる食事の量は違いますからね。

普段、何気なくおいしいと思って食べているコンビニやスーパーなどのおにぎりも、避難所生活で何週間も続くと徐々にのどが通らなくなってきます。これも避難所生活ならではの体験でした。

そのような状況で、避難所に届いた食材で女性のみなさんが作ってくれた味噌汁や野菜のおひたしなど、いつもの生活にごく普通にありそうな手料理がとてもおいしかったのを覚えています。

みなし仮設での暮らし

5月くらいまで避難所にいらっしゃって、その後は仮設住宅に入られたのですか?

みなし仮設扱いで空家を借りました。地元から車で20分近く離れた所に家族で住んでいました。

 

そのみなし仮設にはどのくらいお住まいだったのですか?

2016年の9月まで、5年4か月ですかね。昔建てられて人が住んでいない所だったので、最初は環境認知もできず、屋内でも自由がきかず、なかなか大変でした。それでもプレハブ仮設よりは家族のプライベート空間が確保されて、アパートなども空かない状況の時に貸して頂いたので、それが一番感謝しています。

 

みなし仮設というのは市の方から情報をもらって入ることができたのですか?

私の場合は知り合いからの紹介でした。避難所にいつまでもいるわけにはいかないし、早く落ち着ける場所にという家族の意向もあって、障害のある私には不便なことや不安も大きかったですが、空家を借りました。この地域には他にも空き家がいくつもあり、被災者が一度は入居したようですが、山に囲まれた地域でカメムシやテントウムシ、ムカデなど虫が多く、プレハブ仮設住宅へ移った方々もいたそうです。私たちが住んだ家も6、7年は空家にしていたので、掃除はしていても、虫はたくさん発生していました。それでも家族としてのプライベート空間の確保ができたこと、家族で生活できる場所ができたこと、本当にありがたかったです。

震災前後での生活の変化

小山さんの生活で、震災前と震災後で変わったことは何ですか?

震災前は、見えにくくて聞こえにくい状況でも普通に家族と一緒に生活できていたものが、震災後は自宅だけでなく、見えにくくても感覚で動けていた地域環境そのものを失い本当に動けなくなったというのが一番大きかったです。避難所を出た後も1年くらいは新しい環境で動けなくて。

その後、このままではよくないと思って、インターネットで「視覚障害者と仕事」というキーワードを検索してみました。当時はまだ携帯電話の画面も見えていたんです。すると、仙台市中途視覚障害者支援センターが最初に出てきました。私が学生時代、仙台に4年間住んでいた所の近くだったので、行ってみることにしたんです。そこでは、現在の視力ならば障害者手帳の等級がもっと上がること、白杖の申請もできることなど、たくさんのことを教えてもらいました。

その後、白杖歩行訓練も、パソコンの職業訓練も受けましたし、それで点字訓練も行くようになりました。点字訓練に通うようになってからは視覚障害の仲間の情報が直接入るようになりました。

宮城県視覚障害者情報センターからは視覚障害者に関する情報をどんどん紹介してもらったり、直接当事者からも話を聞いたりすることができました。情報が自分に入るようになったのが大きくて、少しずつ前に進むための気持ちの面も含めて、先のことも考えながら、今やることとか、必要なものを考えたりできるようになりました。これは大きかったですね。

それから、点字訓練に半年くらい通いましたが、私の場合は難聴で、視覚障害者は耳が聞こえますので、視覚障害者の方と同じ場では、話のスピードについていけなかったり、話している内容がわからなかったりするんですね。当時は補聴器もしていなくて、今よりもかなり聞き取りが悪く、情報が入りにくかったんです。そのため、断片的に入る聞き取れている単語で聞き取れているフリをしたこともありました。

それで、宮城にも目と耳の両方が不自由な盲ろう者がいて、「みやぎ盲ろう児・者友の会」(以下:「友の会」)という当事者団体があるということを視覚障害者情報センターの職員から紹介してもらいました。自分は盲ろう者なんだなとその時初めてわかりました。交流会に参加してみたら、盲ろう者を支援する通訳介助員さんが私についてくれました。音声通訳だったんですが、それを受けることで今までどれだけ聞こえていなかったか、情報が入っていなかったかを感じました。その音声通訳のありがたさと、快適さとそれによってずいぶん明るくなったというか。

他にも盲導犬の体験もしました。盲導犬は私は使ってないですけど、それでもいろんな情報が繋がっていきました。あと、盲ろうの仲間とも出逢い、自分が聞こえていなくても、見えていなくても、コミュニケーション方法はいくつもあるということを知りました。

たとえば、同じ難聴という障害でも、補聴器を使用し、静かな場所で近くの会話ならできる盲ろう者もいれば、音としては入るけれど言葉としては聞き取れない人もいます。それで、指文字が使える盲ろう者と何とか直接、コミュニケーションがとりたいと思い、まずは指文字五十音を覚えました。「おはようございます(実際に指文字で示して)」とこれくらいの速さで伝えられるようになって。手話も少し、単語を少しずつ覚えています。あとは指点字というコミュニケーション方法も習いました。今も練習しています。いろんなコミュニケーション方法を知り、同じ盲ろうの障害がある仲間がいることも知り、一緒に活動をするようになって、今その活動を主体として私も社会に参加できていますし、ゆくゆくは自立をして、自立といっても一人でできること、できないことがあるので、社会や仲間、地域、いろんな繋がりのある方との支援も協力も得ながら生活していけるように、いろいろ考えながら活動を続けています。

 

震災がきっかけですごく生活が変わったんですね。

変わりました。生活環境は二転三転しているので、「新しい家に入って良かったね」と言われることもありますが、私は困っていることもあるんです。環境認知はまた0からのスタートなので大変です。それでも、「友の会」の活動を通して、盲ろうになって動けなくなっていた自分が、研修会で学ぶ場所があって東京に行ったり、全国大会では神戸や静岡にも行ったりすることができています。少し前なら有り得ないと思うようなことができているんです。全国の仲間、支援者の方と出会って、今交流ができていたり、情報交換したり。県外からも講師に呼ばれることがあったので、ものすごく自分の世界が広がりました。外に出て情報を一つ得たことがきっかけで繋がっていったんです。視覚障害者は情報障害とも言われます、もちろん盲ろう者もそうですが。あれもこれもなんでできないんだ?とか、マイナス思考になるだけではなくて、私は何か具体的に解決方法やできること、できないことを考え、説明できるようになっていきたいです。こういう風に考えられるようになったのも「友の会」の活動や、いろんな方のおかげですね。

 

普段、地域で盲ろう者など障害のある方を見かけた時、困っていそうな時、どのように声をかけたり、支援をしたらいいのでしょうか?

視覚障害者や盲ろう者はいきなり声をかけられるとびっくりします。なので、静かにポンポンと肩をたたいてから、声をかけていただきたいです。それから、「私はこういう者ですが、今お困りですか?何かお手伝いは必要ですか?」とか言っていただけるとよいと思います。相手の状況を把握してからしてほしいことをサポートしてあげるというのが一番よいかなと思います。盲ろう者は耳も不自由なので、コミュニケーション方法の確認も必要です。盲ろう者については社会的な周知というか理解というか、まだまだできていないと感じていて、私もその周知や啓発のために活動しています。あとは情報保障の手段も音声、接近手話、触手話、筆記、手のひら書き、指点字など、いろいろあります。通訳・介助の支援を受けてわかったことですが、状況説明と言って、今、〇〇さんがこんな表情をしていますとか、ここにこういうものがあってどんな状況ですなど、こういったことを伝えてもらうだけでも、盲ろう者もみなさんと同じように考えて動ける場合もあります。

 

最後に視覚障害の方について知ってほしいこと、お知らせしたいことはありますか?  

一概に視覚障害者といっても情報にも環境にも地域格差や個人差が大きいと感じています。住んでいる地域によって、公共交通機関にも差がありますし。また視覚障害単独の方であれば、音声による情報保障がいろいろあります。私は使えないのですが、スマートフォンやタブレット端末を音声だけで自由に使いこなしている方もたくさんいます。ですが、そういう方法も知らない方もたくさんいらっしゃいます。反対に、そういった情報にたどりついても必要性を感じない人もいるとは思いますが。あと点字についても、「視覚障害者イコール点字ができる人」と思っている方もたくさんいると思うのですが、点字ユーザーは視覚障害者のうち1割程度です。同じように「聴覚障害者イコール手話」と思われがちですけど、手話ができる人は聴覚障害者全体の1割から2割程度です。

 

そうなんですか?思っていたより少ないんですね。

それから、白杖を持っていれば視覚障害だと認識できると思うのですが、その時の声のかけ方、サポートの仕方など、そういったことも含めて視覚障害者が必要とすることを知っていただきたいです。様々な専門機関がたくさんあるので、連携しながら広く情報を出し合って、視覚障害者、聴覚障害者、盲ろう者への理解、周知をお願いしたいですね。必要な時に必要な支援を受けられるようになるといいなと思います。

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