連絡手段

避難所生活中の出来事

避難所の10日間の様子は?困ったことはありましたか?

 うーん。全部が困ったことでしたね。利用者さん・職員に必要な情報が、受けることも、発信することもできなかったことが困りました。誰とも連絡が取れない孤立状態になっていました。
 私たちスタッフは、利用者さんを守る為に色んな情報が必要ですよね。家に安全に帰すためにも。バスが動いてるのかとか。周囲の状況などの情報。あと薬の確保のための情報。そういった情報を得られないと現場で確実な対策が立てられない難しさがありました。
 あとは、避難所内でパーソナルスペースが確保できなかったのは利用者さんにとっては大変だったと感じています。

ずっと、一般の方々と一緒の部屋にいたのですか?トラブルなどは?

 はい。一般の方と同じ部屋で10日間過ごしました。特別な配慮というのは、なかったです。周囲とのトラブルはありませんでした。

それは、地域の人たちのご理解が得られていたから?

 そうですね。仲良くさせて頂いていた元町内会長さんがちょうど同じ部屋にいて、おかげで面識のない町内の方とも仲良くさせて頂きました。私たちも積極的に部屋の方にお話していったので、お互いを知ることが出来、トラブルもなくお互いに支えあうことができました。

避難所運営側との関係性はどうでしたか?

 避難所では学校の先生たちが主に動いていました。私たちは積極的にコミュニケーションを図り、先生方に福祉事業所の職員であること、現状などを話していました。

運営側からの配慮はなにかありましたか?

 特にありませんでした。しかし災害時誰もが混乱している状況で、支えてもらうっていう考え方のみでいると、たぶん、上手くいかないんだと思います。災害時は支えてもらう人はみんな避難している全員同じだと思うので。
 自分で避難所運営に入っていって、一緒にやるっていうスタンスでないとたぶん避難所で過ごす上で上手くいかないんじゃないかな。
 なので、私たちは、七郷小学校に避難した後、すぐに職員室の方にいって、今どうゆう状況か?何か情報は?など情報共有をして自分たちができること、運営のほうに自然と関わっていきました。

連絡手段と家族への引渡し

 親御さんやご家族とも連絡の取れないような状況の中で、一軒一軒、繋がるような所にはお電話をしていったんです。
 杉の入小学校には一台だけ公衆電話があって。ピンク色の。最初の頃はそちらには規制がかかってなかったので使えたんですね。10円玉を持って皆並んでいて。我々も順番に並んで、たくさんかけると迷惑だから2,3軒づつかけて、終わったらまた並んでというようなことをしてたような覚えがありますね、その日の夕方から。
 当然、なかなか連絡がつかない相手もおれられました。繋がるところ繋がらないところ色々でしたね。でも、杉の入小学校に逃げているだろうという想定で迎えに来てくださる親御さんがいたり、他を探しながら杉の入小学校に辿りついた方もいたり、保護者に引き渡せる方はその日の晩から引渡していきました。
 藻塩の里も一緒に逃げていたので、藻塩の里は単身で暮らしている方も何人かおられて、そういう方に関してはその方の生活力に応じてもう少し一緒に居た方がいいんじゃないかという方もいましたね。
 ご家族と連絡が取れるまでは帰さずに一緒に居ましょうということで。自宅がどうなっているかわからない中、個別にその確認までをできるような状況ではなかったので。本人達も不安だから一緒に居たいってこともあったと思います。我々が送って行ったり自宅の確認までするというところは、その日の晩にはしませんでした。

情報の確認

 まったく状況がわからなかったこともあり、電気もない中で情報もなくなってしまって。車でラジオをずっと聴いていれば多少はあったのでしょうが私も混乱していたのか、そういう情報を取る手段が何かはあったんだろうに、動けなかったというのが正直なところありましたね。
 でも伝え聞いてくる話で、津波が来たらしいとか、さくら学園はどうなったんだろうとか、次の日になったらその辺も確認したいので、国道の様子がわかるところまで職員に行ってもらって。その辺りはどうなのかと聞くと、水が溜まっていると。完全に水浸しだったんですね。当時は。
 まだ腰高まであるからとか、段々水位が下がってきて膝位とか、長靴なら行けそうだというところで二日目か三日目には施設に入って被害の状況の確認をしました。

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