防災訓練

七郷小学校で避難生活の開始

七郷小学校にはどのくらい滞在しましたか?

 地震発生日から利用者さんと10日間いましたね。

居場所は確保できたのですか?

 校舎内の部屋には入ることができました。偶然にも荒浜近辺の人たちが入っている部屋だったんです。部屋に入り、ひとまず居る場所を決めて座ったら、隣に荒浜の人たちがいました。

利用者さんの避難場所での様子は?

 不安はあったかと思いますが、一見落ち着いていましたね。理由を聞きましたら、工房で防災訓練をしてたこともありますし、かつ私が防災の勉強ずっとしていたことも利用者さん知っていて、それが少しでも安心感につながったようです。

防災に対する意識

 勉強の1つとして災害ボランティアコーディネーターの講習を受けていました。災害が発生した時に避難所で、ボランティアを受け入れるコーディネーター。コーディネーターは、災害に関しての知識や起こりうるニーズ・避難所運営を知っていないと難しい。受け入れ窓口や避難所等の運営方法とかをロールプレイングして学びました。
 例えば、資機材など何もない状況から、被災した家屋や在る物で救助や活動に必要なものを使って、どういう風にこの状況を打開していくか、いかに運営していくか等、学びます。もともと、防災に関して興味があって、数年いろいろ勉強してました。
 その学びを震災前から利用者さんに常々伝えていました。そういう蓄積もあり利用者さん自身も、今野が勉強してるから大丈夫だっていう安心があったと思います。
 だから、あの時も「今野さん次はなにすればいい?」とよく聞かれました。
 本当に勉強していてよかったと実感しています。勉強し備えていた防災用品や家具の固定を徹底していたので、物も一切倒れなかったし、怪我する人もいなかったです。
 あの時、誰か一人でも怪我をしていたら、救護する時間で避難が遅れ、津波にのまれていたと思います。また、無事だった人は先に避難させたりすると、何班かに分かれますよね。今回誰一人怪我をすることなく避難できた初動も良かったと思います。備えや学びが生かされた面がありました。

その勉強を始めたきっかけは?

 何年も前からずっと宮城県沖地震が起きるというのは周知のことで、もともと、個人的に防災に対する興味があって勉強していました。私たちの仕事は、利用者さんを守らなきゃいけないですし、いつの間にか防災に対する備えを重ねていったんです。

津波が来るまで

 すごい揺れで、これまで防災教育を受けてきたこともあるので、津波が来るというのはすぐ思ったんですけど、まさかのまさかですよね。
 3月2日に、大規模災害を想定した、災害ボランティアセンターを立ち上げる訓練をしたばっかりだったので、ここにいれば雨風もしのげるし、ご飯もあるし、泊まっても2日3日かなと感覚でした。ここにいれば大丈夫っていう思い込みをしちゃったんですよね。
 地震の後、「のぞみ」の前にある広めの駐車場のところに、災害対応のために、テントを出し始めた時に、雪が降り始めて。
 「炊き出しもあるだろうし早く組まなきゃね」なんてやり取りしていたら、地域のみなさんもぞろぞろ避難してきたんですよ。

避難場所での利用者について

利用者の様子は、印象としては、今思い返すと私もそうだったんですけど、ピンときていない様な、何が起こったのかわからないような感じっていうのかな。とにかくすごい揺れに驚き、何がどうなっちゃうんだろうという不安はあったと思うんですけど。
泣き叫んで取り乱すような方は全然いらっしゃらなかったですね。いつも避難訓練の時はちょっとへらへらしているような方も、集中して指示を聞いてくれていた覚えがあります。あんなにスムーズにいくものなのかと、いまだに思い返していますね。
危機感が皆あったのだと思います。ただならぬことが起きたということに関しては皆がそう思っていたと思うし。でもその時点で私は津波に関してはまったく・・・本当に来るという風には思えてなかったところがあって。セオリーとして避難はしたけども、でもそれは自分の意識の低さだなといまだに思うのですけど。

今後へ向けた備え

 あのような経験をした以上、よく千年に一度とか言われるけども、もう来ないんだとは誰も断言してはいけないだろうし。我々も経験した以上はあの時よりももっときちんと備えられたものを持って、利用者さん方を守っていくようなシステムの構築をきちんと準備しているべきでしょう。ですが実際の所はまだまだそれに対して備えきれていない部分もあります。それなりに大変な思いをしたと思っていますし、教訓にしていかなければいけないということですね。
 ただ反面、すべてのことにきちんと備えるとは一体どういうことなのかなと思ったりもします。
 さくら学園は、あれだけ海に近いと何かあった時に水を防ぐことはまずできないので、逃げるしかない。避難訓練を行う中では、年に一度は車が使えない想定で小学校まで皆で歩くというのを行っています。その時ばかりは、健脚じゃない方でもどこまで歩けるか、我々も把握しておく必要があると思っていますので。
 最初の年にはスーパーの入り口の所で疲れ果てていた方が、次の年には少し先の交差点まで行き、また次の年にはその坂の上までなんとか行けるようになり、4年かかってやっと小学校まで歩けたという方もいらっしゃいました。そうやって、どこまで歩けるかという力をきちんと計っておかないと、無理なことを言って却って事故に繋がるかもしれないので。
 どこまで備えたらいいかって本当にわからないんですけども、最低限、命を繋ぐためにどこまでは必要かっていうところは見えているので、そこについては避難訓練等で取り組んできたつもりではあります。

柳橋さんの思い

震災の経験を通して、今思うことやこれからに向けての思いはありますか?

柳橋さん:震災を経験しては、ここは内陸ですが安心してはいけないと思っています。何かあったらどこにどう逃げようという想定の元、送迎にしても活動中にしても対応できるようにしたいと考えています。実際に、避難マップや災害対応マニュアルというものに力を入れています。利用者さんを守れる方法ってなんだろうと考えながら、そういう所に力を入れている状態ですね。
(津波の遡上で)氾濫しても1メートルも水は来ないだろうとは言われているんです。でも1メートル未満の水の中でも、利用者さんが立ってられるかというと、そうは言い切れないない所もあるので。そういう時にどうやって守っていくかというために、職員も含めての避難訓練には力を入れて行きたいと思いますね。
利用者さんの中には避難訓練する度に、未だに吐き気を催したり、パニックになったりする方はいらっしゃるんです。命があっても家族がなんともなくても、被災の状況をどこかの時点で見て、「地震だよ、火事だよ」と言われただけでビクッ!ってなってしまい、体が硬くなってしまう。当時のことを思い出しちゃう。あの時、親御さん達と離れて何日か嫌な思いをした事が思いだされるのだと思います。そういう所を少しずつ克服というか、私たちも一緒に見つめ合いながら強くなっていけるようになれたらいいなと思いますね。

地震発生

東日本大震災当日、渡辺さんはどちらで何をされていましたか。

揺れが来た時は、夫婦で名取市閖上の自宅に居ました。当時は70歳で定年退職していたので仕事はしていませんでしたので。

 

避難はどのようにされましたか。

当時は避難情報というのが全くなかったし、耳が聞こえないから自分たちだけに情報が無いのかなと思っていたけれど、近隣の健常者の人も分からない状況だったので、実際に避難するのかどうかというのも判断できていませんでした。

 

ご自宅は海からどの位の距離がありましたか。

800メートルくらいですかね。名取市閖上の日和山まで3,4分くらいのところです。

 

津波が来ることは想像していましたか。

考えてなかったです。

生まれも育ちも閖上でしたが、これまでは地震が発生しても津波はありませんでした。親からも津波の話は言われたことが無かったので今回は本当に初めてでした。地域での避難訓練や、地震に関する知識や情報などというのもなかったです。

 

そんな中、どういう状況で危ないと感じて避難しようと思ったのですか。

やはりこれまでの地震とは違って大きかったし、その後も何度も揺れが来たのでもしかしたら津波が来るかもと…。地域の住民はどうしているのか、近くの田んぼの方へ様子を見に行ったりしていました。隣の人にも避難しようよと促したのだけれど、なかなか行動する感じではなかったですね。話をしているうちにも揺れが来ていて、そのうちに近くに住んでいる兄が安否確認に来たのです。避難しているだろうと思いながら念の為と見に来てみたら、まだ私達が家に居たのでビックリしたみたいで、それで津波が来るからすぐに避難するようにと言われて。

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