安全確保

地震発生と被害状況

震災発生時は何をしていましたか?

あの日は、工房の中でレクリエーションの日でした。通常の作業は14時40分までですが、この日はレクリエーションがちょっと早く終わって2時半ぐらいに、休憩をしているときに地震が来ました。ちょうどソファーで休んでいる時でした。
利用者さんは、ただただ、驚いていた感じですね。パニックになったりとかはなかったですね。

地震の揺れへの対応、被害状況は?

休憩していたリビングの照明はガラスの照明だったので、それを避けて別のところに避難してもらい、また、食器棚の前にいた方もいたので、その方も、安全な場所に避難誘導しました。
工房では、震災前から避難訓練を常々していました。そして「工房の中の安全な場所はどこか、危ない場所はどこか」っていうのを目で分かるように記載し壁に掲示していました。
日ごろからそういった防災意識を持っていました。あの日も、これまでの訓練や準備に基づいてみんな対応してくれました。
工房内の安全な場所の確保や危険な場所の確認と合わせて、施設内の棚も全部固定していました。おかげで誰1人ケガもせず、かつ、何1つ物が倒れることなく、地震による被害はまったくありませんでした。

地震発生時の状況

ちょうどあの時は、帰る時間帯でした。帰りの会をやる準備するために、荷物などを持ってる時に地震がきたんですよ。だから、全員同じ場所に揃ってはいなかったんですよ。
別室に更衣室みたいなところがあって、そっちにいた方もいらっしゃいました。でも、大体の方が集まっていたので、あれだけの揺れが来てもすぐ机の下に入ってとかの指示はできたんですよ。
ただ、やっぱりすごい揺れだったので、机の中に入りきれない方もいて。私は近くにいたので中に押してやって、その方の頭を抱えながらでしたが、とにかくその時は冷静に見れてはいたんですよね。

作業中の地震

ちょうど、パン作りが終わった頃でした。

当時、小川さんはお仕事をされていましたか?

小川さん:はい。パン作りをしていました。

何人ぐらいでやっていたのですか?

小川さん:だいたい4,5人くらいですかね。

地震が起きた時、どのようにみなさん身を守ったんですか?

作業中で、色々危険物とかあったと思うのですが、みんなの様子はどうでしたか?

小川さん:揺れも強かったので、みんなは台車にしがみついてた人とかいたし、職員の腕をつかんで一緒に外に避難したりといった様子でしたね。

小川さんは、職員さんと一緒に外に出ましたか?

小川さん:動けなくなった利用者さんと一緒に、すぐ逃げました。

この時、怪我とかは無かったのですか?

小川さん:無かったですね。

周りの様子はどうでしたか?

小川さん:物が落ちてたり、書類が下に散らばってたりしてました。

地震発生時の状況

震災当日の揺れ始めた時、さくら学園の隣にある塩釜市の地域支援活動センター「藻塩の里」で利用者さんが、てんかんの発作を起こしたということで呼ばれて、ちょうど介抱していたところだったんですね。私、当時「さくら学園」と両方の管理を兼務してまして。
畳の部屋に皆で運び、布団に横にして様子を見ながら介抱をしていた時でした。
和室からはみんなの様子が目に入らない、廊下を出ないと見えないような所だったので。おそらく皆、キャァって悲鳴を上げたりしながら、職員が落ち着いて「机の下に潜って!」というような指示を出していたと思います。
私はそれを聞きながら、横にしている利用者さんの隣にあった卓球台がもの凄い揺れで倒れかかってきそうだったので、利用者さんに手を置きながら卓球台を支え、大きな声で、机の下に潜るよう指示を出していたような覚えがあります。それからさくら学園の利用者さん達の安否を、揺れが納まった時点ですぐ確認に行きました。
さくら学園では、作業室で作業していた人達にも机の下に隠れて身の安全を守ってもらい、揺れ始めた時には重い備品が机の上から勢いよく転げ落ちてたせいで誰かがぶつかりそうだったというような報告を受けました。怪我がなくて本当に良かったです。

集会所での2日間

高台に避難した後、100人近い職員さんはどうしていたんですか?

自宅の様子や家族の様子を見に、徐々に帰っていく人もいました。近くに家がある人は歩いて帰って行きました。私は集会所に2日間いました。地域の人も集まってきて、家が流されたりつぶれたりした人は1ヵ月くらいいる方もいたようです。

 

集会所は水は出ましたか?

出ませんでしたね。他の人が車で遠くまで行って、山の水をタンクで運んできてくれました。みんなで少しずつ飲み水として分けていました。食べ物は1日1食、同僚と夜に缶詰を食べました。二人で半分ずつ食べて、お腹は空いたしすごく疲れました。

 

集会所は広かったですか?

だいたい20畳くらいですね。10畳くらいずつの二部屋です。

 

ぎゅうぎゅう詰めでしたよね?

ほんとうにいっぱいでした。布団もないし。裏の家の人が毛布なんかを支援してくれて、本当に感謝しています。とても寒かったので、隣の人とピタッとくっついていました。足を伸ばすくらいのスペースも無かったので、ずっと曲げたまま眠るような感じでした。会社の作業着のままだったので、とても寒かったです。

 

周囲の同僚とはどのような会話をしていましたか?

ちょっと会社の人に「何話してるの?」と聞いてみると、周囲の同僚は家族の安否確認をしていたようです。家族のことが心配だから帰りたいと。私も3月12日に帰りたいということを伝えましたが、会社の近くは火事になっているからと止められました。それで、3月13日に同僚と一緒に娘の学校まで歩いていき、無事娘と再会することができました。

前日の3月12日に会社の上司から「娘の名前は何?歳はいくつ?」と筆談で聞かれました。それを子供のいる人たちみんなに聞いて回って、メモを取っていて。上司が歩いて1時間くらいの小学校・中学校に確認に行ってくれました。「お母さんは大丈夫ですよ、お父さんは生きていますよ」と、先生に連絡をしてくれたんです。そして「娘さんは元気ですよ、無事ですよ」ということをみんなに伝えてくれて、本当に安心しました。

 

会社の方々とのコミュニケーションというのは、普段はどうしていたのですか?

筆談です。震災の時はたまたまカバンに「筆談ボード」を入れていたので、それを使ってやり取りをしていました。もし、紙が無ければ…身振りとかで何とかするか、何も言えなくて情報の伝達の仕方がなくて我慢するしかなかったかもしれません。

 

避難する時には、周りの方に手を引かれて避難したのですか

いえ。前後を同僚に挟んでもらって、前の人に付いていく形で避難しました。

 

会社には松田さん以外に聴覚障害がある方は働いていたのですか?

いえ、私だけでした。他には知的障害をお持ちの方がいらしたんですけども、その方も一緒に逃げました。

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