繋がり

決断、そしてこれから

震災の翌月多賀城市より老人福祉センターを借り再開ができ、9月までのところをなんとかお願いして12月まで延長してもらい、たまたま新聞記事を見つけて年末に引っ越し、翌1月からソニー(現在・ソニー㈱仙台テクノロジーセンター内 復興パーク)内に移転しました。
当初は1,2年で別の所を見つけて再建できるという見込みだったんですけど、なかなか移転する先の土地が見つからなくて。もともとあった場所も考えましたが、またこんな同じ目に遭ったらと思うと…。これからはもう安心できる所、津波が来ない所と思ったが故、移転先を探すことがかなり難航したんですね。
6月にさくらんぼ及び桜花が更地になったのも再建か解体かの判断を慌てて迫られるような状況で。大きい決断ではあったけど同じ場所での再建はしないと決断したんです。

何もかもなくなったけど皆一緒だったから、不思議と不安はなかった。一歩一歩頑張ろうと思えたんです。我々は好きでこの仕事(福祉)をやってるんだから。施設を支えていかなきゃいけないと。利用者さんの声を代弁していかなきゃならない。伝えることで繋がるというか。

地域との繋がり

さくら学園だと、例えばレクリエーション的な交流で言うと実はそんなにないんです。どちらかというと地域の方との繋がりというのは廃品回収などの作業を通して。
今さくら学園で行っている廃品回収は、ほとんどが近隣地域なんですね。近隣地域の町内会にチラシを撒くところから始めて、「曜日の何時頃我々通るので玄関先に出しておいてくだされば持っていきます」というアナウンスをしています。塩釜も高齢化が著しく、新聞紙の束を集積所に持って行くことすらお年寄りにとっては大変なことなので、非常に喜ばれるんですね。「いつもありがとう」なんて声をかけてくれて。
我々もきちんと挨拶をして、という風に。作業に携わる利用者の皆さんにもこれだけは本当に強調してお話をさせて頂いています。しかも、お約束したから必ず行くっていうスタンスを貫いているので、行かない時には先にきちんとご連絡をする。期待を裏切らないようにやってきた結果、あの仕事は絶対減らないんです。一回出し始めれば必ず段々と量を増やしてくださったり。最初は様子を見ている方もいらっしゃいますが、一周回って10件あったとして、最初は2件しかご協力頂けなかったとしても、毎回チラシ撒いてまた回っていることで3件、4件と必ず増えていくんです。
我々がお約束したことをきちんと果たしているということについては、地域の方達がよく理解してくださっていると思うので。信頼をしてくださっていると思うので、だからたまに抜けてしまうとお叱りのお電話を頂戴したりもしますし、そういう時はすぐ対応して、関係を壊さないようにやってきました。それは職員・利用者の一人一人が努力してくれたからだということに他なりません。地域の皆様とは、仕事を通してずっと関わりがあるので認知としてはすごく上がって、「さくら学園さんと一緒の所ね」という風に法人内の施設みんな言われるんですよね。

繋がることの大切さ

横浜にいらしたとき、宮城県や横浜市の視覚障害者福祉協会に連絡をされたということですが、立身さんは何かをやりたいと思っていたのでしょうか?

多分ね。この先どうなるか分からない状態で、その地域でいろいろ繋がりができたのは自分にとっては良かったですね。今もいろいろなやり取りがあります。

 

離れていても繋がり、交流があるということですね。

そうです。施設の所長さんから紹介してもらった横浜の視覚障害者の卓球クラブにも行くようになったりして。申し訳ないけど充実してたのかなと思いますね。

 

そういう状況でも何かの役に立ちたいという気持ちが常にあったということですよね。

そんな立派なことではないですよ。何かをしたいという気持ちはあったと思います。今模索中なんですが、石巻地区で視覚障害者の就労支援に関することをやりたいと考えているところなんです。同じ想いを持った仲間も何人かいて。視覚障害者の就労支援というのはなかなか難しいんですが、難しいねで終わっていては何も進まないんで。例えば、仙台にある視覚障害者を対象とした障害者就労支援事業所で点字名刺や封筒を作っているのですが、自分達もできるのではと思って試行錯誤しているんです。とにかく形にしたい。形になれば行政などにも説明しやすい。次の段階も見えてくる。行政、社協の方々と協力しながら進めていきたいですね。それと、視覚障害者向けの情報ネットワークが弱いと感じているんです。当事者向けの情報がなかなかまわってこない。視覚障害者福祉協会に入っていない人がいますよね。堅苦しく感じて敬遠しているのかもしれない。そんな人達にも情報を流したいんです。

 

積極的に活動されているようですが、震災がきっかけになった部分はあるのでしょうか?

そういう部分はあるでしょうね。北上町にいた頃は、交通の便が悪いので家に籠りがちだったのですが、両親も震災の前の年に亡くなり、1人になって。この先のことを考えていたときにあの地震があって、田舎を出て行かなければいけなくなりましたから。

 

横浜から仙台に戻ってきてアパートに住んでいたとのことですが、そちらにはお1人で?

1人です。1部屋。みなし仮設ですね。民間借り上げの。

 

そちらでは何かサポートはありましたか?

生活面ではホームヘルパーの事業所の方に。それとアイサポート仙台、日本盲導犬協会仙台訓練センターの方ですね。外出時はヘルパーさんにサポートしてもらっていました。歩行訓練もやっていたのでひとりでも歩けるのですが、事故の話も聞いていたので外出時は同行援護してもらっています。

 

近所の方々は視覚障害に対しての理解はありましたか?

白杖をついて歩いていたんで、理解はしてもらっていたと思います。

 

例えば、近隣住民の方が歩くときに補助してくれるようなことはありましたか?

ヘルパーさんに頼むので近所の人では無いんですが、外で歩行訓練しているときに「遠慮しないで声掛けていいんだよ」と言ってもらったことはありますね。ありがたかったですね。

 

他の視覚障害の方にインタビューしたときに、場所が変わると環境認知が大変で家を借りて入ったときにその空間を認識するまで大変だったという話があったんですね。今、立身さんの話を聞いていて交差点を一人で行く、幅がどれくらいとか、階段の高さとかそういうのも大変なんだろうなと思っていました。

家の中の方が大変だと思いますよ。歩道橋などは手すりや階段があって一定していますから、いいんですよ。一定しないところ、例えば、幅の広いところとか、全然方向が分からなくなってしまったりしますね。仙台にいた頃は1Kかな、1部屋と風呂、トイレ。だから手を伸ばせば何かに手が届く。1人暮らしはこれでいいのかなと。最近大変だったのはここ(石巻市の新築のご自宅)です。去年の8月7日に引っ越ししたのですが、搬入を第三者にやってもらったら、どこに何があるのか分からなくなって。洗剤やら何やらまったく分からない。レンジの横にしばらくドリンクのような物があったんですが、「これはドリンクじゃないな」と思ってて。それはトイレ用品だったんですが(笑)。結局、体をあちこちにぶつけながら配置し直しました。

震災を経験して思うこと

 震災の前と後で、精神面あるいは体調面で変わったと感じることはありますか?

あります。すごく痩せたんです。娘も同じです。当時中学校1年生だった娘にはいろいろ助けてもらいましたが、ただ、やはりパニックになる所もありました。一番娘がイヤだといったのは「警報」です。雨が降ると水かさが上がりますとか、道路が通行止めになりますっていう放送が鳴るたびに怖がっていました。余震があればすぐに目が覚めて、荷物を持ってすぐに家を出ることの繰り返しで、本当に精神的に疲れました。

LEDの携帯用ランプや懐中電灯を部屋にたくさん置いて、寝る時も光がある、何かあったらそれを持ってすぐに逃げられるようにしていました。それは今も変わらず置いています。食べ物もそうです。備蓄というのは今もしています。

 

防災意識が高まったということですよね。緊急情報の取得というのは、震災前はどのようにされていたんでしょうか。

テレビ、スマホです。アプリなどを活用していました。娘が学校などでいない時は耳からの情報が入らないので、スマホとかテレビを観て情報を得ます。街中のことでいえば、電光掲示板のようなものがあればいいなぁと思うことがあります。私の場合は、筆談などで「何があったの?」と聞きに行ったり、周りで話している人の会話を読み取るために気を巡らせないといけない。何度も何度も聞いているうちに、聞こえている人もこちらも互いに気を遣ってしまうんです。できれば音声放送以外にも、見てわかる物も示してもらえるとありがたいですね。

 

震災を経験して、聴覚障害の方に向けて備えておいた方がいいと思うことやアドバイス等があれば教えてください。

熊本地震のニュースなどで、家族に聞こえない人がいる時に、情報が入らなくてご飯の配給が3日間もらえなかったというのを見ました。避難所ごとに状況はまちまちだと思うので、隣近所の人たちには、自分が聞こえないということを伝える、ちょっと面倒だけどニコッとして(笑)伝えることが大事かなと思います。苦しい表情とか不満な表情を見せるのではなく、「よろしくお願いします」っていうふうになれば、周りの人たちも「いいよいいよ」って言ってくれると思います。「多くの健常者の中にろう者の自分が一人だけいると、遠慮してしまったり、何か恥ずかしい」というろう者の方のお話を聞きました。「障害の無い人と障害のある人の部屋を分けるっていうのも一つの案なのかな」と言っている障害者もいました。

 

聴覚障害の方を健常者がお手伝いする際に、どういったことを意識しておくといいか、教えてください。

聴覚障害は見た目ではわからないという部分があるので、自分が聞こえないんだということを周囲に向けて表す必要があると思うんです。自分から発信していく。中には黙っている人もいるんです。個人の性格的な部分でもあるんですが。「聞こえていないのに、サポートされない」という不満を持つ方もいるんです。なので、支援してくださる方には、最初に「聞こえない人いますか?」「障害のある人いますか?」「病弱の方いますか?」「薬飲んでる人はいますか?」なんて紙に書いて出してもらう、確認してもらう、そのうえで対応してもらえるとその後が楽だと思います。みんなに見てもらって共有できたうえでサポートしてもらえる形だといいなと思います。

 

聴覚障害を持った方とコミュニケーションを図ろうと思った際に、手話ができなければ、簡単な方法としてはやはり筆談になりますかね?

そうですね、やはり筆談とか、あとは身振り手振りもいいですよ。

 

健常の人に知ってもらいたいことや訴えたいことはありますか?

あります。聞こえる人は津波が来るいうことも会話や警報を聞けばわかる、でも聞こえない者はそれがわからない。どうしたらいいんだろうってなった時に、聞こえる人が手をつないだり服を持ったりでもいいから、一緒に行動してもらえるとありがたいと思います。聞こえない人は自分で勝手に動くというよりも、聞こえる人達の様子を見て、真似て一緒に避難するっていうのが多いと思います。紙とかが無い場合は仕方がないから手の平に書いたり身振り手振りだったり、表情だったりで示してもらって一緒に逃げる。その後別れるとかでも構わないです。それが発災直後の話ですね。

あとは懐中電灯が必要なんです。筆談をする時や、携帯電話の画面に文字を打って、それを聞こえる人に見せるとコミュニケーションが取れるんです。暗い場所で見てもらうためにも、懐中電灯は欠かせませんね。今、便利なアプリがあって、打った文字を大きく見せることができるんです。筆談するものが無い時には、こういう携帯電話とかを使って、情報を伝えたり、情報を得たりしていくんですよ。ただ、バッテリーが無くなるとそれで終わりなんですね。電池残量が少なくなるとハラハラしてしまいます。

震災前後での生活の変化

小山さんの生活で、震災前と震災後で変わったことは何ですか?

震災前は、見えにくくて聞こえにくい状況でも普通に家族と一緒に生活できていたものが、震災後は自宅だけでなく、見えにくくても感覚で動けていた地域環境そのものを失い本当に動けなくなったというのが一番大きかったです。避難所を出た後も1年くらいは新しい環境で動けなくて。

その後、このままではよくないと思って、インターネットで「視覚障害者と仕事」というキーワードを検索してみました。当時はまだ携帯電話の画面も見えていたんです。すると、仙台市中途視覚障害者支援センターが最初に出てきました。私が学生時代、仙台に4年間住んでいた所の近くだったので、行ってみることにしたんです。そこでは、現在の視力ならば障害者手帳の等級がもっと上がること、白杖の申請もできることなど、たくさんのことを教えてもらいました。

その後、白杖歩行訓練も、パソコンの職業訓練も受けましたし、それで点字訓練も行くようになりました。点字訓練に通うようになってからは視覚障害の仲間の情報が直接入るようになりました。

宮城県視覚障害者情報センターからは視覚障害者に関する情報をどんどん紹介してもらったり、直接当事者からも話を聞いたりすることができました。情報が自分に入るようになったのが大きくて、少しずつ前に進むための気持ちの面も含めて、先のことも考えながら、今やることとか、必要なものを考えたりできるようになりました。これは大きかったですね。

それから、点字訓練に半年くらい通いましたが、私の場合は難聴で、視覚障害者は耳が聞こえますので、視覚障害者の方と同じ場では、話のスピードについていけなかったり、話している内容がわからなかったりするんですね。当時は補聴器もしていなくて、今よりもかなり聞き取りが悪く、情報が入りにくかったんです。そのため、断片的に入る聞き取れている単語で聞き取れているフリをしたこともありました。

それで、宮城にも目と耳の両方が不自由な盲ろう者がいて、「みやぎ盲ろう児・者友の会」(以下:「友の会」)という当事者団体があるということを視覚障害者情報センターの職員から紹介してもらいました。自分は盲ろう者なんだなとその時初めてわかりました。交流会に参加してみたら、盲ろう者を支援する通訳介助員さんが私についてくれました。音声通訳だったんですが、それを受けることで今までどれだけ聞こえていなかったか、情報が入っていなかったかを感じました。その音声通訳のありがたさと、快適さとそれによってずいぶん明るくなったというか。

他にも盲導犬の体験もしました。盲導犬は私は使ってないですけど、それでもいろんな情報が繋がっていきました。あと、盲ろうの仲間とも出逢い、自分が聞こえていなくても、見えていなくても、コミュニケーション方法はいくつもあるということを知りました。

たとえば、同じ難聴という障害でも、補聴器を使用し、静かな場所で近くの会話ならできる盲ろう者もいれば、音としては入るけれど言葉としては聞き取れない人もいます。それで、指文字が使える盲ろう者と何とか直接、コミュニケーションがとりたいと思い、まずは指文字五十音を覚えました。「おはようございます(実際に指文字で示して)」とこれくらいの速さで伝えられるようになって。手話も少し、単語を少しずつ覚えています。あとは指点字というコミュニケーション方法も習いました。今も練習しています。いろんなコミュニケーション方法を知り、同じ盲ろうの障害がある仲間がいることも知り、一緒に活動をするようになって、今その活動を主体として私も社会に参加できていますし、ゆくゆくは自立をして、自立といっても一人でできること、できないことがあるので、社会や仲間、地域、いろんな繋がりのある方との支援も協力も得ながら生活していけるように、いろいろ考えながら活動を続けています。

 

震災がきっかけですごく生活が変わったんですね。

変わりました。生活環境は二転三転しているので、「新しい家に入って良かったね」と言われることもありますが、私は困っていることもあるんです。環境認知はまた0からのスタートなので大変です。それでも、「友の会」の活動を通して、盲ろうになって動けなくなっていた自分が、研修会で学ぶ場所があって東京に行ったり、全国大会では神戸や静岡にも行ったりすることができています。少し前なら有り得ないと思うようなことができているんです。全国の仲間、支援者の方と出会って、今交流ができていたり、情報交換したり。県外からも講師に呼ばれることがあったので、ものすごく自分の世界が広がりました。外に出て情報を一つ得たことがきっかけで繋がっていったんです。視覚障害者は情報障害とも言われます、もちろん盲ろう者もそうですが。あれもこれもなんでできないんだ?とか、マイナス思考になるだけではなくて、私は何か具体的に解決方法やできること、できないことを考え、説明できるようになっていきたいです。こういう風に考えられるようになったのも「友の会」の活動や、いろんな方のおかげですね。

 

普段、地域で盲ろう者など障害のある方を見かけた時、困っていそうな時、どのように声をかけたり、支援をしたらいいのでしょうか?

視覚障害者や盲ろう者はいきなり声をかけられるとびっくりします。なので、静かにポンポンと肩をたたいてから、声をかけていただきたいです。それから、「私はこういう者ですが、今お困りですか?何かお手伝いは必要ですか?」とか言っていただけるとよいと思います。相手の状況を把握してからしてほしいことをサポートしてあげるというのが一番よいかなと思います。盲ろう者は耳も不自由なので、コミュニケーション方法の確認も必要です。盲ろう者については社会的な周知というか理解というか、まだまだできていないと感じていて、私もその周知や啓発のために活動しています。あとは情報保障の手段も音声、接近手話、触手話、筆記、手のひら書き、指点字など、いろいろあります。通訳・介助の支援を受けてわかったことですが、状況説明と言って、今、〇〇さんがこんな表情をしていますとか、ここにこういうものがあってどんな状況ですなど、こういったことを伝えてもらうだけでも、盲ろう者もみなさんと同じように考えて動ける場合もあります。

 

最後に視覚障害の方について知ってほしいこと、お知らせしたいことはありますか?  

一概に視覚障害者といっても情報にも環境にも地域格差や個人差が大きいと感じています。住んでいる地域によって、公共交通機関にも差がありますし。また視覚障害単独の方であれば、音声による情報保障がいろいろあります。私は使えないのですが、スマートフォンやタブレット端末を音声だけで自由に使いこなしている方もたくさんいます。ですが、そういう方法も知らない方もたくさんいらっしゃいます。反対に、そういった情報にたどりついても必要性を感じない人もいるとは思いますが。あと点字についても、「視覚障害者イコール点字ができる人」と思っている方もたくさんいると思うのですが、点字ユーザーは視覚障害者のうち1割程度です。同じように「聴覚障害者イコール手話」と思われがちですけど、手話ができる人は聴覚障害者全体の1割から2割程度です。

 

そうなんですか?思っていたより少ないんですね。

それから、白杖を持っていれば視覚障害だと認識できると思うのですが、その時の声のかけ方、サポートの仕方など、そういったことも含めて視覚障害者が必要とすることを知っていただきたいです。様々な専門機関がたくさんあるので、連携しながら広く情報を出し合って、視覚障害者、聴覚障害者、盲ろう者への理解、周知をお願いしたいですね。必要な時に必要な支援を受けられるようになるといいなと思います。

今、伝えたいこと

身近な所で、一般の方に対して伝えたいことは何かありますか

今現在、にょっきり団に関わっている友人が、小学校などで福祉研修というのをやっているんですよ。私たちの時代の子どもたちよりも、今の子どもたちの方が福祉にかなり関わってるんですよ。車いすを見ても、案外何とも思っていないんです。どちらかといえば大人の方が偏見があるように感じます。子どもは正直なもんで、変わったものがあればじーっと見るのは当たり前です。いい意味で障害者慣れしてるんじゃないかなって感じはしますね。こういう子らが育ってくれば、本当に日本っていいだろうなって思いますね。「だめだよ、近づいたら」なんていう大人の方にガッカリさせられますね。

 

大人こそもっと勉強していく必要がありますよね。

道徳の時間などで「車いすの操作」や「片麻痺の人の状態」を体験してみるとか、色々やっているみたいですからね。自分が小さい頃は障害者を見ること自体が無かったですからね。環境が違うと思います。

 

今はお一人で外に出られたりする機会もありますか。

近所を散歩したりは、一人で出ることもあります。買い物なんかに行くときは、車に乗せていってもらって、その後は一人で動いています。この夏にはヘルパーさんを利用して、にょっきり団のみんなと一緒に県立美術館に美術鑑賞に行ってきました。楽しかったですね。

 

飛川さんにとって、にょっきり団というのは大切な団体になっているんですね。

そうですね。市に相談や陳情をする際の窓口として、情報交換の場としてであったり、一緒にアート展を観に行ったりもできる、そういう場所があってもいいかなと思います。あんまり怖がらずに関わってほしいですね。あんまり特別なもんでも無いと思うんで。ちょっと体が動きにくいだけで。一歩引かれてしまうと、何も言えなくなるんですよね。だから、普通でいいんですよ。過剰に「大丈夫ですか?大丈夫ですか」って来られすぎても、それも大変です(笑)緊急時はズカズカ来てもらった方がありがたいし、その辺の距離感ですよね。

 

そうなんですね。「あんまり障害のことは詳しくわからないけど、手伝う気はある!」っていうのを示していけばいいんですね。

こっち側もどうしてほしいかはっきり言わないから、悪い部分もあるんですけどね。私も初対面だともじもじしちゃうかもしれないしね。普通の人でも人付き合いって難しいですからね。

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