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開所前のグループホームへ避難しました

社会福祉法人しおかぜ福祉会 しおかぜ
施設長:男性/当時43歳

事業所種別
多機能型(生活訓練、就労継続B型、短期入所)
事業所規模
定員20名
所在地
岩沼市早股字五福田20番
建物被害
1.6mの津波により浸水、内部設備・備品などが壊滅、職員私有車流出
人的被害
当日施設にいた利用者・職員は全員無事
※施設の詳細やMAPの場所は被災時のものです。

外出の為、施設を出て直ぐのことでした

車が激しく縦揺れしたので停車し、揺れが治まり次第、施設へ戻りました。地震に対しては、日ごろの訓練と同様に防御姿勢をとることが出来ました。落下物や倒壊物もほとんど無かったため、ケガ等の対処もなく、職員から施設内にいた利用者及び職員全員の無事の報告を受けました。その時は、一部の利用者から、「怖かった」との声があった程度でした。
その後、津波警報を聞いた事、施設がすぐ海のそばに立地していた事、平屋の建物で避難する場所が無かった事などの理由で、職員に避難開始の準備を指示し、400m離れた農地(授産活動場所)へ向かいました。その場の職員からも全員無事であるとの報告を受け、既に車両に乗り込み避難準備を整えていたため、施設へ向かうよう指示しました。
避難準備のため待機をしている時に、指定避難場所(玉浦小学校)の確認に向かったが避難してくる人の多さと現場の混乱が見受けられたため、ここに避難する事を断念しました。その後、あらかじめ決めておいた避難場所(岩沼市役所)へ向かうよう指示を出し、利用者・職員全員で車両3台(マイクロバス、ワゴン車2台)に乗り、非常持出袋、金庫、名簿等を持ち避難を開始しました。利用者の方々は一部を除き落ち着いて職員の誘導に従ってくれましたが、避難移動の車中において利用者数名から、家族の安否(連絡方法・自宅の鍵)に関する不安の声が聞こえてきました。

市役所→市民会館→グループホーム

はじめ岩沼市役所へ行きました。行政の方々が情報収集と避難誘導のためか混乱しているように見受けられました。市役所は避難の受け入れ場所が無いと判断し、福祉課へ行き当施設の状況・安否報告と岩沼市民会館に避難することを伝えました。
岩沼市民会館は、避難してくる人々で込み合い、混乱していました。はじめは、当施設の利用場所として障がい者の事情に理解して下さり部屋を割り当ててもらいましたが、次から次へと避難してくる市民の収容に限界がきていたように見受けられました。廊下・階段、その他の場所にも人が溢れ、我々が使用していた部屋にも市民が押し寄せ、利用者の把握にも難しい状況になってきました。さらに当日の夜10時頃、「あと数分で館内の予備電源も消えます」との説明がありました。その時いた職員だけでは、利用者全員と手をつなぐことが出来ず、トイレ等に行く場合も暗闇の中では「万が一手を放したら…」と考えるとこの場所での避難は難しいと判断しました。その後、避難場所を変更することを決め、4月開所予定でこの場所から近い当施設のグループホームに移動を開始したのは震災当日の夜11時頃でした。

グループホームでの避難生活がはじまりました

利用者の保護者には、以前より避難場所をあらかじめ取り決め通知していました。しかし、避難場所が第2(市民会館)から第3避難先(グループホーム)に変更になったため、事業開始を4月からとしていたグループホームの場所を通知する方法が無く、苦慮しました。しかし、震災当日の夜中に地元ラジオ局の災害ダイヤルにメールで情報を発信し、放送されたことでそれを聞いた利用者家族が迎えに来ることができ、大変うれしく思い、とりあえず安堵しました。
避難生活自体は、当施設利用者及び職員とその家族のみでグループホームを避難所として使用できたために、関係性も良く混乱はありませんでした。しかし、避難当初は利用者から家族の安否情報や先行きへの不安が聞かれました。約2か月避難所としての役割を担いました。
私自身は、地震直後に電話にて息子の安否は確認できましたが、妻の安否は不明でした。翌12日の早朝に一旦自宅へ戻り、無事が確認できたので、再び避難所へ戻り利用者の把握に努めました。

4月1日に事業所を再開しました

震災前と同じ場所で再開しました。「利用者の非日常を日常に早く戻したかった」事が一番の理由です。利用者のご家族からの要望もありました。また、地域の皆さんの沈んでいる気持ちに対し、我々「しおかぜ」がいち早く復旧することで、前へ進む意識を持ってもらう事に期待し、4月1日の再開を決めました。再開にあたり、水道、電気、暖房、食事等が復旧したことも重要でした。一番困った事は、やはり車両の燃料の調達でした。送迎車3台で広域の送迎運行を行っていたため、日々ガソリンスタンドに並び調達せざるを得ませんでした。また、うれしかった事は、後にいち早く復旧した事に対し、利用者のご家族から感謝の言葉が聞くことが出来た事、そして、地域の方々から「“しおかぜ”が復旧したから我々も頑張らなくてはと思うことができた」との言葉が聞く事が出来た事でした。

活動内容に大きな変化がありました


主な活動は農業でしたが、2mの津波の影響により、農園農地及びビニールハウス3棟が被災しました。その為、農地は塩害や漂着物の被害が大きく、土壌の入替えを余儀なくされました。また、入替後も放射能の影響により堆肥(肥料)の流通が滞り、約1年以上の間、作物の植え付けが出来ませんでした。未だなお、生産に不可欠な用水(地下水)の塩分値が高く、内陸から運搬し使用している状況が続いています。その他、震災前に行っていた流木を使った製品作りも機械が津波被害で破損したこと、沿岸部の工事による影響で材料の入手が困難にあることにより再開を断念している状況です。また、ダンボール加工の請負も相手企業の生産調整により受注が激減していましたが、少しずつ受注が戻りつつある状況です。

震災当日施設にいた利用者及び職員は、全員避難し無事でした。しかし、関係者1名、当日お休みの利用者とその母親の2名、4月より利用が内定していたご本人1人と別の内定者のご両親2名の計6名の尊い命が犠牲となりました。また、再開当初数ヶ月間は利用者ご家族の不安により、お休みをされたケースもありました。他にも、送迎中の周りの景色が違うことで精神的に不安定・パニックになる利用者の方やこれまで日々行っていた作業が変わったことで不安定になる利用者さんも複数名見られました。仕事(作業)に対しても、作業量が減っていたことによって利用者の方々の継続性と集中力が減ったように思います。新たな作業も試行していますが、多くの利用者の方に取り組んでもらうには時間と根気が必要です。ひとつひとつ取り組んでいこうと思っています。地域の方々の関わりは、以前と変わりなく、お声掛けやご協力・ご理解をいただき良好であると思います。

ネットワークが広がりました

支援団体との関係や被災事業所同志の情報共有や提供により、ネットワークができたことで相談や協力がしやすい環境に変わったことはありがたく思っています。作業情報や利用者支援など今後もより深いお付き合いを願えればと思っています。

あの時、一番必要だと思ったものは・・・・

食料は行政支援もあり十分でしたが、毛布や暖房機器(電気不要なもの)、発電機、通信機器(トランシーバー)等と水(飲料水他)です。

あの時を振り返って、一番考える事は・・・

役職として、利用者及び職員の命を守ることが運良くできました。今後の備えとしても避難訓練等の実施は心がけていきたいと思います。また、命が最優先で「命あればこそ」だという事は重々承知していますが、職員私有車の全損も事実であり、再び同じことでは経済的な負担は避けられません。これに対しても、今後一定の配慮と対策が必要であると考えています。

今、一番伝えたいこと

多くのご支援くださった皆さんにこの上ない感謝を申し上げます。
ご同業の方々に際しては、ご苦労も続いているかと思いますが、お身体をご自愛され頑張っていただきたいと願っています。
最後に、国の復興支援策に関しての決定には時間を要し、かつ支援内容も施設復旧と備品に限られ、人件費等の運営面への補助はありません。当法人においては復旧の決断をし、早々に自主的に資金を借入れ、先行して工事発注を行い、結果的に後付で補助(10割ではない)を頂きましたが、規模によっては自前で復旧ができないことも有り得ました。また、休業が長引けば収入はゼロ、支援を担う手も収入が無ければその確保も厳しいでしょうし、また、利用者の方の受け入れも適わないことも有り得ました。そうした時に利用者(要援護者)の方々の日常はどのように担保されていくのか大きな不安を覚えます。
日頃の運営努力も必要との認識は重々承知していますが、総合支援法(訓練等給付)においても利用の上限が設けられています。こうした有事の際、運営は自助努力で行わなければならないのが現状です。せめて、このような時にこそ要援護者の支援が優先され、そして、運営に対しての補助等を含めて、福祉に身を置く者にも一定の安心の基に働くことができる環境整備をこの震災においての一つの教訓としていただきたいと切に願うものです。