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波が引いたらすぐに戻るつもりでした

社会福祉法人洗心会 風の里
支援員:女性/当時49歳

事業所種別
南三陸町地域活動支援センター
事業所規模
定員20名
所在地
本吉郡南三陸町歌津字伊里前
建物被害
建物全壊、施設備品全損、職員車両全台流失
人的被害
なし
※施設の詳細やMAPの場所は被災時のものです。

利用者のみなさんと作業中に地震発生!!

揺れが大きかったので机の下にもぐるように指示をしたと思います。揺れが治まりそうになったので立ち上がろうとしたらまた揺れました。泣き出す利用者さんもいて、そばに行って肩を抱き、揺れが治まるのをじっと待ちました。
防災無線では3mの津波がくると聞こえました。当時の所長、役場の方の指示で避難の準備を始めました。

3mの津波と言われ、「どのあたりまで来るのか・・・」見当がつきませんでした

とりあえず、波が引いたら戻るつもりで避難しました。まだ、この時点では事の重大さがわからず、利用者の家族への連絡などは考えていませんでした。
各自必要なものだけを持って(私は、自分の財布と免許証のみ、バックは置いたままでした)いったん外に集合し、歩いてすぐ裏の高台(小学校と中学校の間の駐車場)に徒歩で避難しました。利用者のみなさんも少し落ち着きを取り戻し、全員徒歩で避難しましたが、途中、倒れて動けなくなった利用者さんがいて雪の中、数人で移動させるのに苦労しました。

一時避難した場所で危険を感じました

高台から海が見えたので近所の人たちと一緒にラジオの情報に耳を傾けながら今後の行方について考えていました。波が小学校のプールに入り込み自分たちの居場所に危険を感じたので、もう少し高台の中学校の体育館に移動しました。そこが避難所になっていたのでそこに身を寄せました。

国道が寸断、携帯電話も不通。着の身着のままの避難所生活でした

本当に、どうしたらいいのかが分かりませんでした。夜8時頃になって利用者さんの家族が迎えに来て通れる道があることを知り、翌日からの行動の打合せをしました。
避難所生活は、短い人で1日(次の日に帰す)、長い人では9日間となり一緒に過ごしました。近くに住む身寄りのない利用者さんが、私たち職員と他の利用者さんを見つけ、同じスペースで過ごせた事は良かったと思います。着の身着のままでの避難だったので寒くて大変でした。
しかし、利用者さんの中には薬が切れて発作を起こしたり、情緒不安定になり、夜中に怒鳴りながら歩き廻ったり、気になる人の名前を呼びながら似ている人に近づいて、声を掛けたりして捜す人がいたため、周りの人の迷惑にならないように気を配りながら過ごしました。私自身は、震災当日2時間後ぐらいにたまたま携帯電話の電波が繋がり家族の無事をメールで知りました。次の日、利用者さんを送った帰りに一時帰宅し他家族の無事も確認できたので、毛布やお菓子等を持ち帰り利用者さんたちと避難所で過ごしました。

 

約2か月後の5月25日に再開しました

利用者さんが少しでも明るく過ごせる様にという思いで約2ヶ月後の5月25日(水)、「国境なき医師団」が被災者の為に開いてくれた「かふぇ あづまーれ!」に集まる事にしたところ、遠くに避難している利用者さん以外の16人(ほぼ全員)が集まってくれました。しかし、この地区では公共施設が全部流されてしまった為に、その後の活動拠点を探すのに、とても苦労しました。そんな中で唯一残った山手、入谷公民館の職員の方々が快く貸して下さったのが嬉しく、現在の場所に移るまでの約11ヶ月を過ごしました。
現在は、南三陸町の役場が出来る前に使用していた仮設の庁舎で活動しています。南三陸町の委託事業(地域活動支援センター)なので、町が色々と準備をしてくださいました。

仕事がなくなってしまいました

町全体が津波の被害を受けました。その為、委託されていた清掃の場所もなくなり仕事が減ってしまいました。また、再開に時間が掛かったために、他の事業所に異動した利用者さんがいて売れ筋だった商品が作れなくなったり、他の利用者さんのやる気がなくなったりとなかなか元に戻るのは難しいと感じていたところ、大牟田市社会福祉協議会からカゴの大量注文や内職作業を頂いた事で、利用者さんのやる気も少しずつではありますが、戻ってきている様に感じています。

あの時を振り返って、一番考える事は・・・

必要なものを持ち出すことが出来ず、一年前の津波警報の教訓等を生かせなかったことを残念に思います。日頃からの訓練が大切だと思いました。
また、昔から言い伝えられている「津波てんでんこ」※という言葉の意味を改めて考えさせられました。

※「津波てんでんこ」とは・・・古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え
「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」「自分の命は自分で守れ」

今、一番伝えたいこと

一人ひとりが防災意識を高め、災害を最小限におさえるように努めてほしいと強く思います。