生きがい

震災後の心境

今はだいぶ復興も進んで風景も変わりましたが、閖上地区に戻りたいと思いますか。

来年3月でここが閉まるので、閖上に戻るか災害公営住宅に移るかどうかと、息子と相談したんですが、また地震があった時に津波が来るかもしれないし、お父さんは耳が聞こえないから心配だから閖上に戻るのはダメだと止められました。閖上は生まれ育ったところだし、慣れ親しんだところなのですが、息子から言われてやっぱりだめだなぁと思い、戻らないと決めました。今後また地震があった時に、地盤沈下とかひび割れとか、新しい家を建てても壊れてしまう心配もあるので、閖上に戻って生活するのは諦めました。

 

震災前と後で心境の変化や生きがいみたいなことで感じるものはありますか。

今も全国で地震が発生しているので、また日本のどこかで同じような地震があるかもしれないという、この先の心配はありますね。イラストを描くのが趣味なので、今回の大震災の教訓を孫に代々受け継いでもらって伝えたいと思ったので、震災の記録をイラストを交えてファイルにまとめたものを作りました。

 

このファイルはどこかで見てもらったり展示したりしたことはありますか。

大阪、徳島、東京、神戸方面などからも貸してほしいという依頼はありました。

この先、南海トラフ地震などが想定されていて心配なので、そういった時の為の備えになればいいなと思います。

再稼働

震災の2年後に事業所を再開されたということですが、当初の利用者さんの様子はどうでしたか?

再開が決まったときに「ずっと待っていた」「長かった」と初めて本音が聞こえました。今まで我慢してくれていたのです。かえって私のことを心配してくれていたくらいです。

皆さん、希望に満ちあふれその嬉しさは言葉に表せないくらい大きかったと思います。

しかしながら、きらら女川は女川町での建設第一号というくらいに、地域の皆さんや企業の方々が再建に苦労をされていた中なので、手放しで喜ぶことには抵抗を感じていました。

衣食住が整っている人とそうでない人との差がある中で、第一号で建設ができるということに気兼ねがあったのですね。

私自身、避難所生活をしている間、行く場所や仕事がない辛さを痛切に体感しました。働けるなら一生働きたいとも思いました。利用者たちも同じ気持ちだったと思います。

仕事をスタートしたときに、とにかく仕事ができること自体が嬉しく、楽しく、一生懸命に取り組み、あっという間に仕上げてしまいます。もっと何かできるんじゃないかと仕事に対しては今もすごく貪欲ですね。

職員さんや利用者さんのモチベーションを高く維持できている理由はなんでしょうか。

仕事があるということですね。就労支援事業で一番しんどいのが仕事の創出ですね。でもこの仕事を生み出すのは職員の役目です。「就労支援」という名前が付いている以上考えていかなければいけないことです。

 

これからの発展に思うこと

松原さんご自身は今も復興に向けて突っ走っているというご心境でしょうか?

突っ走っている気はないんですが止まると後退すると思っています。女川に障害者の働ける場をつくり、きちんと機能させていくことがそもそもの私に与えられた使命で、それだけを捉えれば達成感はあります。

基本的にきらら女川の事業所自体は地域の特性上、これ以上規模を拡大する必要は無いように思っています。

ただ、事業(仕事)の拡大は常に考えています。作業の効率、作業の改善、製品の品質向上、今の工賃をもっと上げていくためにはどうすればよいのか等、段取りや経済的なこと。

突っ走るわけでは無く、ある程度勝算を見込んで、まわりの協力を得ながらやってみる。万が一うまくいかないことがあったときは、速やかに撤退の方法を模索する。損害が大きくならないような工夫をすれば良いことだと思っています。

これまでも、その工夫の積み重ねなのかもしれません。

未来に向けて、きらら女川が目指しているものはどんなことですか?

それは、きらら女川の方針を次世代に引き継いでいくということです。

そのためには職員たちに対し、次の二つのことをしっかり伝えていかなければと思います。

私たちの仕事は、言うまでもなく障害者への就労支援です。

一つ目は、 自分の仕事に対する責任と厳しい目を養う。民間企業では当たり前のことです。

二つ目は、利用者のスキルを向上させるための努力を惜しまない。

私から伝え、そして伝え続けていってほしいと思います。できることを増やしていくのは、本人にとっても事業所にとっても喜ばしいことです。

まずは、我々職員がやって見せます。本人の努力と職員の根気でできるようになります。

「もう手伝わなくても大丈夫です」と職員が邪魔にされるくらいが理想ですね。

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