きらら女川

お話:特定非営利活動法人 きらら女川 所長 松原千晶さん

震災当時の様子

3月11日震災発生時はどんな状況でしたか。

この日は事業拡大のため、新拠点へ引越し作業をしていた日なんですね。午前中から引越しを開始していたので、ほぼ大きな荷物は運び終わったところでした。

その前の年に事業所を立ち上げ、障害者の福祉的就労の現場が無かった地域だったのであっという間に需要が膨らんできました。もう少し事業も町の中心部へ打って出ようと新拠点開設の計画を立てました。ほんとにドアを開けると目の前は海という沿岸部にあった「きらら女川」はこれまで利用者が作業していた場所も、引越し先の新拠点もその日のうちに津波で失いました。

2年間のブランク

事業所の再開を考えたのはいつ頃なのでしょうか?

被災直後はそんな余裕はなくて、まずは利用者の安否確認でした。次に、利用者のこれから先のこと。事業所の再開という以前に「みんなで生きること」に向き合うときでもありました。ただ、このままでは終われない。自分たちのやってきたことを「無かったことにしましょう」という考えはありませんでした。

利用者さんを見捨てるわけにもいかないですよね。

できることをしないのが見捨てるということだと思います。諦めないで小さいことを積み上げていった結果が今に繋がっているのかなと思っています。

事業所の再開まで2年間のブランクがあったそうですが。

はい、本当にこれはもう人それぞれの震災ですから一言で同じようには語れないところはありますよね。事業所の建物が建ったのは2年後でしたが、それでも女川での建物の新設第一号だったんです。それだけ女川は大変な状況だったということです。

商品の開発

きらら女川といえば「さんまパン」が有名ですが、事業所再建の主力商品だったのでしょうか?

さんまパンはひとつのアイテムです。私たちの主力商品は「おからかりんとう」です。事業所再開後、全国の方々からご注文いただき本当に助けられました。

アイテムがひとつだけってすごく怖いですから何本かの柱を持っているのが一番強いですね。これは大変でもありますけど足腰は強いかなと思います。

再建に向けて苦しかったこと

職員の方は現在何名くらいいらっしゃるのですか。

今は私を含めて5名ですね。あとパート職員として店舗・送迎・給食に3名の方にお願いしています。去年2人退職してしまい、2名抜けたところはなかなか厳しいのでパート職員で補強はしていますが、仕事量が多く大変です。それを職員たちは並々ならぬ努力で回してくれています。凄いと思いますよ。尊敬しています。

今は立派な建物もあって、だいぶ復興も進み再建されたというイメージがありますが、ここまで来るのに大変だったことはどんなことですか。

大変だったのはもう震災そのものですね。あとはそこから頑張るしかないのでね。

印象に残っているという点では、被災地と被災地ではないところとのギャップです。

私は鳥取から女川の障害者就労支援事業所の立ち上げのために来ていたのですけど、立ち上げとそれを軌道にのせる、長くても1年~2年というめどを立て、鳥取へ帰る予定でした。

そんな矢先に震災がありました。

きらら女川の復旧まで2年がかかってしまったわけですが、その間に事業の立て直しのために奔走しました。ただ指をくわえて待っていたのでは、これまでの取引先も失います。一日も早く製造・供給せねばなりません。事業所を再建するためには仕事を失うわけにはいかないからです。ただ女川では当分の間は何も始めることができない被災状況でした。そこで地の利を活かし鳥取に新たに事業所を設置する決断をし、2011年6月には供給を開始しました。鳥取の事業所でも私と一緒に働きたいと言ってくれる障害のある仲間たちが集まってくれました。いままで経験したこともない忙しさに不満を漏らす方もありました。私は、事業所の再建を見据えながら、被災地女川と鳥取とを行き来していました。女川では集まる場所もなく、仲間たちとは月に1回、隣接する石巻市のイオンにあるレストランで近況報告をしあいました。ただ、家も、行く場所も、仕事も失った彼たちに「鳥取は忙しい」という言葉だけは呑み込み、少しずつ頑張っているよと伝え、待たせて申し訳ない気持ちで一杯でした。

いよいよ再建のとき、女川でやりかけたことを一から始めるために私はまた女川に向かうわけですが、鳥取の障害のある仲間たちやご家族からは「自分たちはどうなるのか、行かないでほしい」と言われたときには、被災地と被災地でないところの大きな隔たりを感じました。私は、「震災はまだ終わってないです」と説明するしかありませんでした。

当然、鳥取の事業所はそのまま今も継続しており、多くの仲間たちが働いてくれています。

再稼働

震災の2年後に事業所を再開されたということですが、当初の利用者さんの様子はどうでしたか?

再開が決まったときに「ずっと待っていた」「長かった」と初めて本音が聞こえました。今まで我慢してくれていたのです。かえって私のことを心配してくれていたくらいです。

皆さん、希望に満ちあふれその嬉しさは言葉に表せないくらい大きかったと思います。

しかしながら、きらら女川は女川町での建設第一号というくらいに、地域の皆さんや企業の方々が再建に苦労をされていた中なので、手放しで喜ぶことには抵抗を感じていました。

衣食住が整っている人とそうでない人との差がある中で、第一号で建設ができるということに気兼ねがあったのですね。

私自身、避難所生活をしている間、行く場所や仕事がない辛さを痛切に体感しました。働けるなら一生働きたいとも思いました。利用者たちも同じ気持ちだったと思います。

仕事をスタートしたときに、とにかく仕事ができること自体が嬉しく、楽しく、一生懸命に取り組み、あっという間に仕上げてしまいます。もっと何かできるんじゃないかと仕事に対しては今もすごく貪欲ですね。

職員さんや利用者さんのモチベーションを高く維持できている理由はなんでしょうか。

仕事があるということですね。就労支援事業で一番しんどいのが仕事の創出ですね。でもこの仕事を生み出すのは職員の役目です。「就労支援」という名前が付いている以上考えていかなければいけないことです。

 

これからの発展に思うこと

松原さんご自身は今も復興に向けて突っ走っているというご心境でしょうか?

突っ走っている気はないんですが止まると後退すると思っています。女川に障害者の働ける場をつくり、きちんと機能させていくことがそもそもの私に与えられた使命で、それだけを捉えれば達成感はあります。

基本的にきらら女川の事業所自体は地域の特性上、これ以上規模を拡大する必要は無いように思っています。

ただ、事業(仕事)の拡大は常に考えています。作業の効率、作業の改善、製品の品質向上、今の工賃をもっと上げていくためにはどうすればよいのか等、段取りや経済的なこと。

突っ走るわけでは無く、ある程度勝算を見込んで、まわりの協力を得ながらやってみる。万が一うまくいかないことがあったときは、速やかに撤退の方法を模索する。損害が大きくならないような工夫をすれば良いことだと思っています。

これまでも、その工夫の積み重ねなのかもしれません。

未来に向けて、きらら女川が目指しているものはどんなことですか?

それは、きらら女川の方針を次世代に引き継いでいくということです。

そのためには職員たちに対し、次の二つのことをしっかり伝えていかなければと思います。

私たちの仕事は、言うまでもなく障害者への就労支援です。

一つ目は、 自分の仕事に対する責任と厳しい目を養う。民間企業では当たり前のことです。

二つ目は、利用者のスキルを向上させるための努力を惜しまない。

私から伝え、そして伝え続けていってほしいと思います。できることを増やしていくのは、本人にとっても事業所にとっても喜ばしいことです。

まずは、我々職員がやって見せます。本人の努力と職員の根気でできるようになります。

「もう手伝わなくても大丈夫です」と職員が邪魔にされるくらいが理想ですね。

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