立身(たつみ)憲一さん

お話:立身(たつみ)憲一さん(男性/当時60代/視覚障害)

地震発生

東日本大震災当日、立身さんはどちらにいらっしゃったのですか?

石巻市北上町十三浜の自宅にいました。自宅でマッサージの仕事をしていたので。

 

地震発生時、どのようなことを考えられましたか?

考えたというか、地震の大きさはすごいなと思って。普通とちょっと違うかなと思って。今までは地震があっても仏壇とか棚から物が落ちたことは無かったんですよ。でも、物が落ちる音がして。これは後片付けが大変だなと思いました。外に出ると家がミシミシと音がしているのが分かりました。そんな状況なので、「うわー、これは大変なことだぞ」と思いました。落ち着いた頃、お世話になっていた市の社会福祉協議会(以下、社協)の方が車で来てくれたんですよ。「避難するよ」って。とりあえず、ウィンドブレーカーとか、折りたたみの白杖などを持って、高台にある北上中学校に車で避難しました。

津波、避難

そのとき、津波がくるという意識はありましたか?

ない。全然ない。揺れでびっくりしてたんだよね。やっぱり、後片付けのことで頭がいっぱいなんじゃないですかね、恐らく。避難所で誰かが「家が流されている」と言ってて。「家が流されるってどういうことなの?」と思って。何か変な感覚になってね。そのときはもう津波が来てたんだよね。私には見えないから。偶然、避難が早かったというか、社協の人が来てくれてね。来てくれなかったら多分ここにはいなかったでしょう。

 

立身さんのご自宅は海沿いだったのでしょうか?

十三浜なんですけど、ちょっと海からは離れていたんです。以前からラジオなどで宮城県沖地震は必ず起きるとやっていたし、地震は来るんだろうなと思ってました。しかし、あの辺りは川幅が600mほどで、堤防の高さも約8mあります。なので少々の津波が来ても大丈夫という感覚でした。津波の経験は親の代でもない。しかし、海に近い地域ではそういう経験がある。家が山の中腹にあったり、1階を倉庫にして住まいは2階だったり。手すりがない階段があってね。何でかなと聞いてみたら昔津波にやられたと。家にいた人は波にさらわれたらしい。お年寄りの話ですが。たまたまその人は外出中で助かったと。何が何だか分からなかったと。今回だってそうだよね。

 

同じ沿岸部でも集落によって津波に対する意識は違うんですね。

違う。うちの方はそういう津波の感覚ってのはないと思う。だから犠牲者が多かったんです。

 

立身さんのご自宅は流失はしなかったのでしょうか?

流失はしませんでしたが、一階部分は柱を残して流されました。ガレキが片付いた頃に家に行ってみたんですが、柱があってよく残っていたなと。水で浮いたようなんですけど、ガレキが流失を止めた格好でした。

避難所の生活

そんな感じで北上中学校に3日間、社協の建物に2日間、市内に住む甥の家に2週間避難してましたね。社協はうちの集落の山裾にあるんで。目の前まで水は来ましたが、建物は無事だったので。

 

ご自宅から北上中学校まではどれ位の距離なんでしょうか?

2キロから3キロくらいですかね。

 

北上中学校はもともと避難所として指定されていたんでしょうか?

はっきりと避難所として指定されていたかは分かりませんが、宮城県沖地震がいつか起きると言われ続けていたんで、避難所という意識はあったと思いますよ。広いし、車で避難しやすいし、建物もあるし。

 

立身さんは何かあったら北上中学校に避難しようと思っていたのですか?

思ってないです。そもそも津波という頭がないから。

 

北上中学校には飲み物や食べ物はありましたか?

近くの温泉の方が炊き出しに来まして、一口大のおにぎりとか、ウィンナーとか、卵とかが配られました。贅沢が言える状況ではなかったです。

 

立身さん以外に障害をお持ちの方はいらっしゃいましたか?

そこでは私だけだと思います。名乗らないだけでいたのかも知れませんが。周りの方からは常に声を掛けてもらってました。

 

避難所で困ったことはありましたか?

困ったと言っちゃいけないんだろうけど。例えば、トイレはバケツに水を汲んでおいてそれで流すんだけど、自分は感覚でできるから正直苦にならない。でも、周りの人は気を遣ってやってくれるのね。嬉しいんだけど、感覚で生きているもんだからひとつズレると、いろんなものがズレちゃう。そうなるとトイレに行きにくくなってくる。

 

それは、周りの人が気を遣ってくれるのがかえって申し訳ないなと?

そうそう。そうなってしまう。ひとりなら何とか流したりというのはできる。でも、そういう問題じゃないんだなと思って。何か変な意味で気遣ったのかなと。

 

遠慮でしょうかね。

そこから社協の建物に移動して。カップラーメンとか物資がいろいろ届くから。そこで感じたのは、同じ集落の仲間の中で視覚障害者は自分だけなんです。次の日から捜索やら何やらやるじゃないですか。動けないのが自分だけなの。2人組になるとしても、自分と組むと荷物になる。みんな精一杯でそれどころじゃない。そうなって初めてそこにいるのがつらいと思った。後日、横浜に住むもう一人の甥っ子が訪ねてきたんだけど、一緒に横浜に行こうと思いました。申し訳ないと思いながらね。それで横浜の方で4ヵ月ほどお世話になって。白杖とか何も無いので、宮城県の視覚障害者福祉協会に電話したら、横浜の視覚障害者福祉協会を紹介してもらって。電話したらすぐ来てくれることになって。また、そのときに障害者福祉施設の方と知り合ったのですが、そこで箱折りなどの作業を一緒にやらせてもらって。半日作業して、午後にウォーキングとか、ボランティアの人たちと一緒に歩くんですよ。いろんな所を歩かせてもらってね。こんなこと言ったらバチが当たるかも知れないけど充実していましたね。でも、施設ではいいんだけど、住まいの方ではどうしても気を遣ってしまうんだよね。

 

長くいるとそうなりますよね。

だからちょっといろんなことが見えてきたかなと。で、たまたま仙台のアパートに引っ越しできるようになったので、引っ越しました。そこには5年いましたね。仙台に越してからも宮城県の視覚障害者福祉協会とかいろいろな方に協力してもらって助かりましたね。横浜にいても仙台にいても充実していたというか、勉強になったと思います。

繋がることの大切さ

横浜にいらしたとき、宮城県や横浜市の視覚障害者福祉協会に連絡をされたということですが、立身さんは何かをやりたいと思っていたのでしょうか?

多分ね。この先どうなるか分からない状態で、その地域でいろいろ繋がりができたのは自分にとっては良かったですね。今もいろいろなやり取りがあります。

 

離れていても繋がり、交流があるということですね。

そうです。施設の所長さんから紹介してもらった横浜の視覚障害者の卓球クラブにも行くようになったりして。申し訳ないけど充実してたのかなと思いますね。

 

そういう状況でも何かの役に立ちたいという気持ちが常にあったということですよね。

そんな立派なことではないですよ。何かをしたいという気持ちはあったと思います。今模索中なんですが、石巻地区で視覚障害者の就労支援に関することをやりたいと考えているところなんです。同じ想いを持った仲間も何人かいて。視覚障害者の就労支援というのはなかなか難しいんですが、難しいねで終わっていては何も進まないんで。例えば、仙台にある視覚障害者を対象とした障害者就労支援事業所で点字名刺や封筒を作っているのですが、自分達もできるのではと思って試行錯誤しているんです。とにかく形にしたい。形になれば行政などにも説明しやすい。次の段階も見えてくる。行政、社協の方々と協力しながら進めていきたいですね。それと、視覚障害者向けの情報ネットワークが弱いと感じているんです。当事者向けの情報がなかなかまわってこない。視覚障害者福祉協会に入っていない人がいますよね。堅苦しく感じて敬遠しているのかもしれない。そんな人達にも情報を流したいんです。

 

積極的に活動されているようですが、震災がきっかけになった部分はあるのでしょうか?

そういう部分はあるでしょうね。北上町にいた頃は、交通の便が悪いので家に籠りがちだったのですが、両親も震災の前の年に亡くなり、1人になって。この先のことを考えていたときにあの地震があって、田舎を出て行かなければいけなくなりましたから。

 

横浜から仙台に戻ってきてアパートに住んでいたとのことですが、そちらにはお1人で?

1人です。1部屋。みなし仮設ですね。民間借り上げの。

 

そちらでは何かサポートはありましたか?

生活面ではホームヘルパーの事業所の方に。それとアイサポート仙台、日本盲導犬協会仙台訓練センターの方ですね。外出時はヘルパーさんにサポートしてもらっていました。歩行訓練もやっていたのでひとりでも歩けるのですが、事故の話も聞いていたので外出時は同行援護してもらっています。

 

近所の方々は視覚障害に対しての理解はありましたか?

白杖をついて歩いていたんで、理解はしてもらっていたと思います。

 

例えば、近隣住民の方が歩くときに補助してくれるようなことはありましたか?

ヘルパーさんに頼むので近所の人では無いんですが、外で歩行訓練しているときに「遠慮しないで声掛けていいんだよ」と言ってもらったことはありますね。ありがたかったですね。

 

他の視覚障害の方にインタビューしたときに、場所が変わると環境認知が大変で家を借りて入ったときにその空間を認識するまで大変だったという話があったんですね。今、立身さんの話を聞いていて交差点を一人で行く、幅がどれくらいとか、階段の高さとかそういうのも大変なんだろうなと思っていました。

家の中の方が大変だと思いますよ。歩道橋などは手すりや階段があって一定していますから、いいんですよ。一定しないところ、例えば、幅の広いところとか、全然方向が分からなくなってしまったりしますね。仙台にいた頃は1Kかな、1部屋と風呂、トイレ。だから手を伸ばせば何かに手が届く。1人暮らしはこれでいいのかなと。最近大変だったのはここ(石巻市の新築のご自宅)です。去年の8月7日に引っ越ししたのですが、搬入を第三者にやってもらったら、どこに何があるのか分からなくなって。洗剤やら何やらまったく分からない。レンジの横にしばらくドリンクのような物があったんですが、「これはドリンクじゃないな」と思ってて。それはトイレ用品だったんですが(笑)。結局、体をあちこちにぶつけながら配置し直しました。

備え

震災後の地震に対する備えはどうでしょうか?何か備えていらっしゃいますか?

防災リュックがあります。水とかアルファ米とか、それと保温シートと着替え用ポンチョなどが入ってます。あとは手動充電できるラジオ、ランタンもありますね。それと笛、手袋。とにかく一式ですね。

 

健常者に対して、障害を持った方の立場から備えに関してアドバイスはありますか?

物というよりも、災害前にいろんな所と繋がっておく。そうするといろんなものが見えてくる。情報の共有が大事だと思います。

 

自分からアンテナを張って情報を収集すること、できるようにしておくことが大事だということですね。

そうだと思いますよ。そこからだと思いますよ、物資とかが届くのは。

 

災害時の情報収集手段はやはりラジオですか?

そうですね。テレビより分かりやすいのかな。テレビで困るのは、テロップは我々には何の役にも立たない。ちょっとのことでも喋ってもらえると助かりますね。それと、石巻地区なら携帯も便利です。登録をしておけば、訓練とか、大雨でもどの地域が避難とか、携帯に流れてきます。市の方に登録しておくんですよ。

 

それは音声で流れる?

そうです。

 

それは震災後に設けられた機能ですか?

いえ、もっと前です。何年前かな?結構前ですよ。携帯の空メールを打ってそれで登録するんです。震災後のメールの数はすごかったですね。罹災証明書に関することとかね。

 

そういったものに登録しておくことと、常日頃から周りの人とも繋がっておくと何かあったときに困らないということですね。

そうですね。やっぱり、そうやっていれば情報は早いですよね。そういう災害以外でも。

視覚障害者への理解

健常者に対して、視覚障害のことで知ってもらいたいことはありますか?

最近は声を掛けてもらえるようになっていますね。この前、電車の中で一人になったとき、乗務員さんに初めてだったけど声を掛けてもらって。

 

何と声を掛けてもらったんですか?

お客様、どちらまでですか?と。最初は自分に話掛けられているのか分からなかったんだけど。「私ですか?」と聞いたら、「白杖を持っていらしたので。もう一人の方は降りましたよね?」と。「ああ、ヘルパーさんです。」と答えて。で「一人になったから来てみたんです。」と。降りる駅を伝えると、その駅の職員にお伝えすることもできますと。扉の開閉ボタンを押してくれた人もいましたね。

 

最近ですか、そういうのが増えてきたのは。

私は初めてでしたね。それも全国的に鉄道の事故があったからじゃないですかね。稼働柵を設置するといっても簡単ではないよね。手っ取り早いのが声掛け。駅の職員さんはもちろん、周りの方にも声を掛けてもらえるとありがたいですね。

想い

現在の立身さんの生きがいというのはマッサージの仕事と、先ほど言った仲間との情報共有のネットワーク作りと仕事作りということになりますか?

そうですね。そう言いながらもときどきね、テレビを見ているときとか独り言を言ってしまうんですね。(震災を)思い出したくなくても思い出してしまう。忘れようとしても忘れられるわけないだろうとね。しようがないよね、毎日いろんなことがあって。生きてるからね。生き延びたんだから。申し訳ないけど私は笑うよとか。独り言でね。酒も飲むし、でも時には涙も流すさ。申し訳ないけどもう少し生きるよって言いながらね。何だろう、自分を慰めているのかね。そんな感じになってしまう。

 

震災をきっかけにより想いが強くなったんですかね。

そうかも知れないね。いろんな人のいろんな考えがあると思うのね。みなさん、強くなったんじゃないですか。

 

立身さんは積極的に活動されていると思うのですが、そうやって発信している方々がいるからこそ、周りの人もたくさん力をもらっているんじゃないですかね。

それが目的というかね。

 

まだまだ様々なサポートがあることを知らない人が大勢いると思いますが、そういった人達に発信していけると生活が潤うというか、充実した人生が送れますよね。

こっちの方を向いてくれるかなって。同じ想いを持った仲間と協力しながらね。仲間も常に何かできることはないかと探しているんですよ。待つだけじゃなく、行政や社協の方に協力してもらいながら、ラジオ、新聞なども利用させてもらってね。

 

先ほど、当事者の人にもっと表に出てきてほしいという話がありましたが、内向きな方が多いのですか?それともきっかけが無いだけなんでしょうか?

うーん、きっかけがないのかな。多分、何をやったらいいか分からない。そういうところだと思うの。例えば交流会などで役所の人と話をしてもね、一回だけじゃだめだと思うの。何回か参加して考えないと。一回話を聞いただけで活動を始めても長続きしないと思いますよ。ゆっくり考えればいいじゃないですか。

 

まずは参加することですね。

そうだね。参加してほしいし、そのためには情報を流す必要がある。

 

そういった方々が表に出てくることで生き甲斐を見出してしいという想いがあるということですね。

そうですね。見出してほしいですよね。もし、表に出てくるのがイヤだと言うのであれば、いろんな音声情報があるじゃないですか。それを利用すればいい。例えば、プレクストーク(視覚障害者向けの音声を聞いたり、編集することができる機器)。プレクストークは役所に頼めば手配してくれる。そういうサービスがあることを知らない人もいる。必要なら教えてくれる人も来てくれるので。自宅でなら、3、4人くらいで練習会もできるんじゃないかなと。そこまでいきたいね。とにかくそのためには役所、社協の手を借りてね。

 

立身さんのようにポジティブで積極的に人と関わる方ばかりではないと思うのですが、そういう人達の背中を押してあげる役割をされているという印象を受けました。もっと情報を得ることができて、その中から自分で選んで行動できるようになればいいですよね。

そうなんだよね。自分で選べれば最高ですよね。もしかしたら、体を動かしてみたいって人も出てくるかもしれない。そうなると障害者スポーツに繋がってくる。

 

世界が広がりますよね。

広がりますよ、絶対。だからもったいない。

 

知らないってことはもったいないですよね。

やはり情報ですよね。そこをね、何とかして行きたいね。

 

立身さんもパワフルでいらっしゃいますね。

うーん、凄い人はいっぱいいるからね。でも、こういう風にいろんなことができるっていいよね。いろんな人の手を借りながらもね。石巻って震災後にボランティア団体がいろいろできたんだよね。そういうのと障害者ももっともっと繋がっていけばいいのになと思うんだよね。いろいろやってる人もいるみたいだけどね。

 

では、今後の課題ということですよね。

うーん、だと思いますね。

 

立身さんが震災前に住んでいたご自宅は、基礎だけが残り更地となってしまいました。近辺では多くの犠牲者が出ており、津波がいかに想定外で大きいものだったかを物語っています。立身さんの仰る繋がる事の大切さはもちろん、大災害を想定して、いかに備えるかが大事だという事を痛感する取材でした。

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