避難所運営

高台の避難所

牡鹿半島の高台に建つ保健福祉センター「清優館」。その一角に「くじらのしっぽ」があります。

どちらかに避難場所を構えたんですか?

多田さん:今使っている作業室のところで、寝泊りなどの生活をしていたんですよね。避難してきた一般の方々は、清優館内の各部屋やホールを使っていて、分かれていたようです。
安子さん:最高時、ここ(清優館)は500人いたそうです。避難した人多かったよね。(一般の人も含めると)
(震災時、多田さんと、安子さんは別の事業所にいらっしゃったそう)

滞在期間はどのくらいこちらで避難していたのですか?

多田さん:夏くらいまでいた?
小川さん:はい。

体調を崩されたりとかは?

かよ子さん:体調崩すって言うよりは、メンタル面のほうが大変でしたね。ここも、ごらんのとおり高台の一つしかないので。いっぱい人来たよね。
小川さん:はい。
かよ子さん:ドア一枚出ると、知らない人たちがたくさんいて、いつもと違う環境だったよね。

夢中になってがんばってくれました

極限状態の中、(利用者さん)みんながそれぞれの役割を担ってくれていたのです。

職員さんが、避難所運営に携わってるのを見てて、やらなきゃって思いだったのですか?

小川さん:うーん。

かよ子さん:たぶんね、考える間もなかったと思います。私たち(職員)は、(障害が)重度の利用者さんも抱えていて、まず、そっちを守んなきゃいけなかったんです。自分の家族の安否もわからないし、肢体不自由の利用者さん、車椅子の利用者さんのご家族もどうなってるかもわかんない。そういう中で、小川さんとか、一言二言の声がけで動いてくれる利用者さんに、手伝ってもらいました。一回で動いてくれる人たちは、私たちの話を必死に聞いてくれました。
 みんなの変わりにやらなきゃいけないぐらいの切羽詰まった状況だったと思います。重度の利用者さんたちのこともあるから、自分たちだけは迷惑かけられないっていうか、そういうことは思っていたと思います。彼女(小川さん)も地域に親御さんや兄弟もいたし、心配だったと思うんです。でもそんなことは言わず、表情ひとつ変えずに懸命にやってくれました。

避難所の閉鎖

なかなか法整備が整わず、福祉仮設への引越しは被災者の中で、最後になりました。

避難所の滞在期間も夏くらいまでいたと伺いました。

かよ子さん:私たちが一番最後までいました。
まず一般の人たちから仮設住宅に引っ越ししていきました。徐々に避難者が減っていき一般の方々がすべて避難し終わると、まだ私たちは作業室で避難生活をしているのに、清優館の避難所が解除となり驚きました。

安子さん:もう閉鎖になったんだよね。

多田さん:その時まだ仮設のグループホームも出来てなかったんですよね。

かよ子さん:仮設グループホームが完成して、引っ越したのは9月でした。その年、秋に大きな台風が直撃し、ちょうど二日前に引っ越しして、ようやく落ち着いたところだったね。なんとか、自分の部屋で寝られるようになったねっていうときだったね。

小川さん:はい。

かよ子さん:大きな被害は無かったので安心しました。けど、彼女たちはすごい我慢したと思いますね。

小川さんは普段からがんばる方なんですか?

かよ子さん:うん、仕事ね。みんなの手伝いもしてくれるし。

地域の人に配ったパン

万が一のために、作業で作っていた食パンを冷凍庫いっぱいに保管していたことが役立ちました。

かよ子さん:何かあった時のために、パン作ってたんだよね。

小川さん:はい。

かよ子さん:その日、作って終わるころに地震がきました。15時までの作業だったんです。そのパンをその日の夜から、お年寄り、子供、小学生、中学生の順から配りました。清優館に避難してきた人たちは、それをその日から食べて凌いでもらったのかな。
そして、「あの人たちから、パン貰ったんだよ。」って後から知ると、色々言って来てた人たちも、「ごめんねって。自分たち、いろんなこと言ってしまったけど。あんたたちに最初に助けられたんだって。」声を掛けられて。

普通、指定の避難所なら、アルファ米とか、水とかがあったのでしょうけどね。

安子さん:ここの、清優館は備蓄は無かったと思いますが、倉庫には毛布があり寒さはしのげました。

そのパンはどういう種類だったのですか?

かよ子さん:三斤の食パンです。百本ぐらいは(冷凍庫に)ありました。

避難所になった「ひたかみ園」

避難所だったという「ひたかみ園」の様子についてですが

柳橋さん:うちの「ひたかみ園」という入所施設がある場所は、近くに川と繋がっている大きな堀があります。その堀より土手を越えて水(遡上してきた津波)が溢れたんですが、奇跡的に施設周辺だけ津波の被害が無かったのです。
 それで、海側の津波の被害がひどかった所から、自衛隊のヘリコプターが吊り上げて救助された方々がいました。その方々を無事な大きい建物があるということで、「ひたかみ園」に集めたんですね。入所施設なので、避難所を運営するつもりはなかったんですが。
 「ひたかみ園」の職員や利用者はすでに内陸に逃げていたので、その時は施設に誰も居なかったんです。それで波が引いて戻ってみたら、「誰か住んでる!?」という状態だったんです。それが避難所の始まりです。
 ただ、その中で一般の被災者と、障害を抱えた被災者とでは求める支援の内容も違うし、一緒にいる事に互いがしんどさを感じてしまう事から、別々の避難所生活を送ってもらう事にしました。一般の方には申し訳なかったんですが、入所施設内の違う建物の方に移っていただきました。一般の方の滞在期間は1ヶ月2ヶ月くらいかな。違う地域の避難所に移るまでは、ここでどうぞという形で。(避難所になってから)4日目、5日目くらいにはそういう分け方をしていたと思います。

障害者が集まった経緯

「ひたかみ園」が避難所だった当時は、一般の方も含めて何人くらい居たんですか?

柳橋さん:地域の方々は、最初は2,30人くらいだったと思います。小さい子なんかも含めると。
障害を持つ方は最初は少しだけでした。ですがやはり、(一般の方もいる、学校などの)各避難所でも色々な問題が起きてきていたという話がありました。
 それでうちの法人が、バスで(地域の)一般の避難所をそれぞれ回って、うちでこういう避難所をやっているので、「よかったら移動しませんか?」っていう声がけをさせていただいたんです。それから、「ひたかみ園」の避難所にじわじわと集まってもらったという感じですね。
 最初の1週間くらいには、近くの大きな病院さんも、もういっぱいの状態で。身元がわからないとか、うまくお話が出来ない人とか、怪我をしたけど治療が終わっていても帰る事が出来ない方々は、結局看護師さんが見れないので、私達の避難所の方に移送されては来ていましたね。
 避難所を開始してからの数日は、お名前が分からないんだけども、「一般の方ではないようなので」という理由だったり、痴呆を抱えた方々とか。意思疎通の出来ない、でも、「医療行為はあまり必要ないよ」という方々が集まってきて、ただ夢中で皆さんのお世話をさせて頂きました。

「ひたかみ園」に避難した人

(学校などの)一般の避難所から移ってきた方はどのくらいいたんですか?

柳橋さん:その数を今は把握していませんが、ご本人だけ、というのは少なかったと思います(ご家族で移動された方が多かった)。多分数名はいたんですが、結局、お家も家族も被災されているので、さみしい思いをされている方も多かったように思います。
 入所施設なので、お部屋は6畳でした。通常、入所の時は2人1部屋で利用者さんが使っていたんですが、そこを各家庭に、一世帯ずつに分けて入っていただきました。
 3月11日に地震があってから、避難所で共に過ごす中で、被災された皆さんの新しい今後の問題が出てきました。ほとんどの皆さんは、お家もない状態でした。そこで、日本財団さんや各関係各所にご協力いただいて、小国(石巻市内の地名)のところに仮設住宅(福祉仮設)を建てて、被災した方々が次の事を考える場所を法人として提供させて頂きました。 
 これらの事を、法人内のスタッフだけで支援をさせて頂くのは難しく、避難所には多くのボランティアの方々が関わってくださいました。その方々の長い支えもあって、避難所を続ける事ができました。 1ヶ月2ヶ月経ってくると、ラーメン屋さんだったり、ケーキを持ってきてくれるなどの支援をしてくれるボランティアの方々がありました。なかでも、(福祉)施設でケーキを作っているという事業所が、わざわざ愛知・新潟・からケーキを持って来てくれたことがありました。本当に遠くから色んな方々にお世話になりました。

避難所での困難

避難所での困ったことや印象に残っていることはありますか?

柳橋さん:個人的には、私はこれまで認知症のひどい高齢者の方にお会いしたことがなかったんです。
 お年寄りの利用者さんで、暴言を吐かれるなどの話を実際に聞いてはいましたが、体感したことがなかったので(目の当たりにして)びっくりしました。
 けれど(避難所に来た)ボランティアの中には、そういう介護が上手な方がいらっしゃったんです。色々お手伝いして頂いたり、教えて頂きました。私には、とても勉強になる事ばかりでした。
 最終的に、身寄りのないお年寄りの方達も何人かは家族が見つかったんですけど。結局、現状では面倒をみる事が難しいという理由から、県外の老人ホームにご家族と移られた方々がいらっしゃいました。中でも、「誰も居なくて…」って言って、スタッフをずっと頼ってくれたおばあちゃんと別れるときはちょっと辛かったですけどね。
 その他、被災された方々が他の避難所と様子を比べられるというか、「なんであっちにはちゃんとご飯出てるのにここは来ない」のとかを言われることがあって。
 確かに、正式に元々避難所指定を受けたところではないので、認知されて自衛隊が確実に、定期的に支援に来るまでには時間がかかったんですね。
 避難所になった「ひたかみ園」にあった材料とか、法人内の物をそこに運んで食べていただいてたのですが、一般の方が時々違う避難所に行って色んな情報を聞くと「なんでここの避難所は○○なの?」等の意見を聞くと、悲しい気持ちになった事を覚えています。
 その時にできる最前の事はさせて頂いていたという気持ちがあっただけに、互いの気持ちが理解しあえない、今の環境が震災の被害という事がこんな所にも表れてくるのだと
自分の気持ちも踏まえ、災害の辛さを感じました。
 一般の方々はそのような中でしたが、利用者さん方はご家族と一緒だったのであまり不安になることもなく過ごしていたように思います。

避難所の課題

大勢の方が避難されてきたなかで、困ったことやトラブルはありましたか?

当時は今を過ごすだけで夢中になっていましたので、意識しなかったり、よく分からないけどストレスになっていたり、いろいろあったのですが、一番困ったのはトイレです。トイレに自由に行けない。見えないですし、一人で移動はできませんし。朝8時頃出かけた家族が帰ってくる夕方5時頃までずっと我慢したこともありました。もちろん、その後見えなくても一人で移動ができるルートを確保し、避難所の近くの民家のトイレを借りたり、避難所生活の環境も少しずつ落ち着いてきてトイレにも行けるようになったのですが、1ヵ月くらいはかかったかもしれません。

 

その他にも困ったことはありましたか?

そうですね。プライベートな空間がないというのも困りました。常に誰かに見られている状態、もちろん知っている人が集まっていて、お世話になる立場でもあるんですが、何というか心理的自由がないというか。誰かに気を遣っていただいてありがたいのと、常に見られているのとで、ちょっと複雑なところがありました。なので、下の民家のトイレに行く時に、何ともいえない解放感のようなものを感じたことがありました。トイレが唯一のプライベート空間じゃないけれど、用を足さなくてもそこにこもったこともありました。

 

やはり一人になれる空間というのが必要だったということですね。

周りの視覚障害の方からも、プライベート空間は特に意識されていると聞きます。結局、自分が見えていないから、状況が分からないんです。個室であればやはり落ち着きます。かと言って、一人ではいられない。誰かの知恵や助けも必要。そのあたりの葛藤というか、複雑な思いはあります。もちろん、お手伝いして頂いたり、気配り、目配りしてお世話をして下さった方々、私はお世話になった身ですので、ありがたい、その一言につきますけど。それとは別に、やはりプライベート空間ということに関しては大変でした。それと、もう一つ困ったことがありました。

 

何でしょう?

食べ物の量のことです。支援で頂いている自衛隊のお弁当が届くようになってから、お年寄りの方々が自分の食べられる量だけ食べて、あとは残すということがちょっと心理的にできない状況だったんですね。頂いたものをこの状況で捨てるというのはできないから。無理して頑張って食べている人もいました。私でも量が多いなと思ったくらいだったんです。でも、とりあえず全部食べなければ、ゴミにもなるし、食べきってしまえば片付けやすいし。しばらく経ってから、無理して食べていたおばあさんがポロっと一言「多い」とつぶやいていて。そこで、ちょっとこれだけの量はお年寄りは食べられないなと気づきました。「気にしなくても残してもよいですよ、体にもよくないし。全然悪いことじゃないから。」と話しました。そうしたら、次の食事からは残すようになりました。最初のうちは、出されたものを大事にしなければならない、粗末にできない、そういうプレッシャーみたいなものがあったと思います。こんなことをいうと逆にみんな支援してくださってるのに何を言うんだという話になるかもしれないですが、普段は食べられる量をその人に合わせて食べている、それができないとちょっと困る。普段の生活では全く意識しないことですね。

 

食べ物の問題と聞いて、みんな足りなくて、すごく少なくて、どうやって分けようかというイメージが浮かびましたが、正反対でした。一人ひとりの食べられる食事の量は違いますからね。

普段、何気なくおいしいと思って食べているコンビニやスーパーなどのおにぎりも、避難所生活で何週間も続くと徐々にのどが通らなくなってきます。これも避難所生活ならではの体験でした。

そのような状況で、避難所に届いた食材で女性のみなさんが作ってくれた味噌汁や野菜のおひたしなど、いつもの生活にごく普通にありそうな手料理がとてもおいしかったのを覚えています。

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