支援

災害弱者と福祉の現場1

災害弱者とは災害時要援護者ともいいますが、「自力での避難が困難な人。支援を要する人々。」当然避難してからも配慮が必要となるわけです。仮設に入る際は優先順位が高いと言われながらも避難所では居場所すらない。例えばトイレが多目的トイレじゃないと使えない利用者さんがいたりとか、障害持ってる方はここのスペースを優先的に使ってもいいですよとか、当時はそういった配慮はなく結局避難所ではない別の居場所を探したり、車の中に入るしかなくなったり。そうすると避難所以外では支援物資はもらえないとか…。堂々巡りになり、当時はそういった事がしんどかったです。

災害弱者と福祉の現場2

 車椅子って一人一台しか押せないじゃないですか。利用者さん10人いたとして職員体制も10対10ならいいんですけど人手は足りてない。

 そういうことって言われればわかるんだけど、福祉に携わっていない人たちにもあの時福祉の現場のあちこちで起こっていたことを掘り起こして、知ってもらいたい。

モノ作りとさくらんぼ2

仕事があった時は忙しいって言ってたのに、なくなってからはヒマだって言う(笑)
仕事があることのありがたさを知ったというか。改めて思ったんじゃないですか、やる事がある、ということを。仕事に対しての意識も違ってきたしね。慣れてくればまた言うことも変わってきたりはするけど、それってある意味、日常に戻りつつあるっていうことで、幸せなことだと思いますよ。

震災前は休みがちだった利用者さんもモノ作りになってから休まず来るようになったりして。沢山の注文来るようになって。飽きないように日々工夫していましたね。
震災後から現在に至るまでなんとか工賃アップにつなげてきた。震災前の仕事は未だに戻ってきていないしね。本当に一からやってきたっていう思いです。ここまで取り戻せたのも支援して下さった全国の多くの皆さまの温かな支援のおかげで…単純に人の力ってすごいなって思いました。
利用者さんだって、作業服がいる。手袋がいる。みんな流されてる訳ですから。買わないといけない。だから、そういう所って大事だなって思ったんですよね。生活に直結することじゃないですか、お金って。

再開へ向けた動き

 畠山と再開場所を入谷地区(南三陸町の山あいの地区名)で探そうって話をして。当てがあったわけじゃないんですけどね。
 利用者さんのその後の安否確認と再開場所探しをしようと言って、一旦3月18日に解散しました。
 畠山と活動を再開したのが3月22日ですね。法人内の車が無事だったのでそれを足にして。ありがたかったのが、気仙沼市が早い段階で法人内の車を各一台緊急車両的に扱ってくれて。優先的にガソリン入れていいですよっていう。
 朝集まって、畠山と合流して車を使って各避難所の利用者さんのところを回ったりするっていう感じでした。
 その中で3月の末には活動を再開する場所が見つかったんです。
 今も含めて言える事というか、ずっと我々は困りごとも含めて、その都度その都度、紙に書いていたわけじゃないですけど、プレハブがどうしても手に入らないとかも含めて訴えることを用意していたんです。
 プレハブも、仮設住宅を建てるラッシュの中で、レンタルとはいえ入手する段取りもできたので、今思えばスムーズだったのかなというのもありますね。
 ただ、利用者さんにしてみてば長かったと思います。一日一日が。我々は簡単に早かったって言っちゃいますけど、避難所にいた方にとっては、長かったと思いますね。
 ただ、4月の半ば位だったかな?利用者さんがバラバラな中で、こちらから提案したことがあって。避難所で入浴ができなかったので、集れる職員で利用者さんを集めて、週2~3回程度、登米市長沼の日帰り入浴の温泉に行こうと。お風呂入ってご飯食べたって感じかな。全員ではないんですけど。
 主に避難所生活の方とかに、そのようなことを4月、5月はやっていましたね。とにかく集る場所がなかったので、入谷地区で再開するまではそれを続けていましたね。全員均々ではないんですけど、そういうの通して集れてはいましたね。

同じ法人内の施設について

 指定を受けているわけではないのですが、福祉避難所になっている施設もあって。朝晩は家をなくした職員や利用者と一緒にご家族も共同生活をして、日中は普段のように作業をしてという生活をしていたそうです。ご家族の方も、そこから職場に向かわれたりしていました。
 別の施設でも、被災した地域の方々もみなさん避難してきて、最大8月くらいまで一般の方もいるような状況だったそうです。福祉避難所扱いとして気仙沼市からへ支援もお願いして、応えてもらっていたそうです。
 「のぞみ」もそういう支援を受けた施設から支援物資を分けてもらって、避難所にいる利用者さんたちに持っていって分けていました。

私有地での再開とJDFとの関わり

 再開前の5月の連休明けくらいにJDF(日本障害フォーラム)の存在を知りました。障害を持つ方たちのお手伝いしたいっていう方々でした。その方々には、5月末の入谷地区の私有地にプレハブを設置しての再開の際には、最初は自分たちと一緒に畑おこしをやってもらいました。
 JDFの方々はほぼ全国、北は北海道、南は沖縄の方まで来ていただいてましたね。
 全国地図を作ったんですよ、来てくれた県を埋めていくような。後々支援に来た方々にお礼をしたいなって思いまして。「のぞみ」の元気な様子を伝えたいなって、広報誌とかを送りました。

紙漉き製品の始まり

私も畠山も先のこと考えた時に、畑作業は冬があるのでずっと続けられないよねって、中でできる作業的なものがなければねって話をしている中で、たまたま現場の中から紙漉きはどうですか?っていう話が出て。
その流れで、「社会福祉法人 仙台市手をつなぐ育成会」の職員さんが訪ねて来てくださった時に、紙漉きやステンシルの道具一式をもらいました。紙漉き作業を進めている時に、さらに社会奉仕団体の「世田谷ライオンズクラブ」の方とお会いして、紙漉きの機械を入れていただきました。
次の町有地のプレハブには、寒くなる前の11月に移れました。入谷地区にあったのよりちょっと大きいんですよ。雨の日も入れるようになって、エアコンとかもつけて、これで冬越せるねって感じでホッとしました。
そうやって、やれることが広がっていく中ではあったけど、最初の2年か3年は、言い方悪いんですけど、お祭り状態っていうか、自分たちも整理できないまま日々過ぎて行く感じでした。
色々なことを、自分たちで決定していくタイミングも、もちろんありました。でも、みなさんが気にかけてくださる中で、自分たちで決めたっていうよりか、来て下さった方たちが決めたことが多いんじゃないかなって思う時があるんですよね。
本当にすごい方々と出会って、タイミング良くタイムリーに支援していただいたなって思います。その時は気づかなかったわけではないんですが。
利用者さんも同じく、私とか畠山を介して、いろんな方々が来て、気づいたら紙漉きの機械が入っているとかそういう感じだったと思います。モチベーション高くやっていたというよりか半ば強制的な感じで、やるぞ!って勢いよくやっていたというか。日々変化していく中で順応していくという感じだったと思います。
あと、最初いただいたステンシルの道具は誰がやっても同じくできるっていうものではなかったんですよ。マヒのある方は、押さえが必要で。そういうツールに関しては、自分たちで考えたりして、やり方を見てる中で工夫をしてました。
そういうこともあり、震災前に家の農作業のお手伝いするために休んだりしていた方が、震災後、紙漉きが始まっていろんなことが忙しくなると、お家の事情でお休みするのは全然問題ないのに、本人がすごいやる気になってくれて、「俺が休んだら仕事回らない」って自信を持ってやってくれていました。誇りを持ってやってくれてるんだなって思いました。

数々の支援について

 自分たちの力だけではなくて、「のぞみ」を介して支援したいとか、「のぞみ」のご家族からのコネクションで支援に来て下さったっていうことがあります。
 誰かが誰かと自分たちをつなげてくださったっていう感覚がありまして、だから我々はあんまり活動的に何かをしたっていうのはないんですよ。
 そこにいて、誰かが来てくれるというような、すごく恵まれているんですよ。人が人を呼ぶっていうか、不思議な感じでしたね。
 最初の2年くらいは、絶えず、下手すると毎週のようにお客さんが来ていたような気がします。
 南三陸町の場合は、メディアを通じて町長さんが出ていたので、発信力があって、それでスポットが浴びていたこともあり、いろんな方々に助けていただけたのかなって思います。
 場所とか時期とか違っていたらまた違った歩みだったのかなって思う時はあるんですけどね。

今後の活動について

被災した障害者就労支援事業所等が集る連絡会議をきっかけに、障害のある人のアートを社会に発信する「エイブルアート・カンパニー(現:エイブル・アート・ジャパン)」と繋がって、「のぞみ」の熱意を感じ取って下さり、紙漉きと南三陸のシンボルを組み合わせて何かやろうということになりました。
南三陸にまたモアイが来ることもあって、利用者さんたちにイラストを描いてもらって、その中で1人の利用者さんのモアイの絵を選んでもらい、それを商品化しようということで動き出しました。それで、まずはタオルを作って下さって。そこからとんとん拍子に進んでいきました。
ただ、モアイグッズは副産物的な売り上げにはなるので、今後、新アイテムを展開していかないと下火になってくるとは思うんですね。
世の中はシビアですが、個人的には綺麗事かもしれないけど、障害を持った方々が作った素敵なものが、いろんな方々に関わってできているんだってことを、後追いで一般の方に聞かせたいなっていう思いがあるんです。
商品が良くて、お金払って下さって、後から「あ、これそういうところで作ったの!?」って知ってもらうというのが理想的。そういう物づくりをしたいなって思っています。
利用者さんは、認められるっていうことに慣れていない方々多いので、こういった物づくりを通すことによって、障害者の方々への誤解や我々も周知できていない部分など、困っていることは意外とちょっとだけなんだよっていうことを広めたいですね。
障害っていう言葉だけが独り歩きして、「大変」ってなるんですよね。
どうしてもなかなか知られていない部分があるなっていうのが課題です。そのためにも紙製品で売り上げをあげられたらいいなと、もがいているところです。
今後も、のぞみに関わってくれた方々への感謝を忘れずに、利用者さんと共により成長していきたいなと思います。

支援物資

なかなか支援の手が入らず、あきらめムードの中でも、声を上げることは忘れませんでした。

仮設が完成した後、物資が届いたりはしたのですか?

かよ子さん:物資はね、利用者さんが仮設のグループホームに入る際に必要な7点セットみたいなものは申告はしてたので、頂いたんです。
ただ、(仮設の)グループホームの後ろに一般の仮設住宅があったんですけど、そこに一軒ずつ物資が届いても、グループホームには来なかったんですよ。地域の皆さんには物資が届いたと教えられても、グループホームには声を掛けられなかったんですよ。こんなに立派な建物があるのに。

小川さん:ジャガイモとか、みかんとか、後ろの仮設の人たちだけで。

かよ子さん:それが、欲しいとかでないけど。

そうですよね

かよ子さん:グループホームの窓からすぐに一般の仮設住宅の玄関が見えるので、物資が運ばれているのが見えるんです。だからそこで、ちょっと嫌な思いはしたのかなって。

そういう思いをした人たちはどういう人だったのですか?

かよ子さん:地域の名簿に載ってなかったの。それで「うちは何区の何班なんですか!」って聞いて。名簿に載ってないと地域の情報が伝わらなし、いざという時のために地域の方々とコミュニティーを築いていないと、地域での生活は難しいので、名簿に載せて貰いました。そういう形で関わっていくうちに、地域との連携が取れてきました。

小川さん:でも、仮設のグループホームに引っ越してから2ヶ月くらいは、物資が来なかったんですよ。

物資はなにが来たのですか?

小川さん:野菜とか来て。

かよ子さん:(利用者の)皆さん住む場所が昔と違うところになるので、区長は誰なのとか、近所の人とのコミュニケーションとか不安が多くあるなかで、「何が・・・となりと違うの?」という言葉も聞かれてました。なんか一般の仮設住宅とは違う扱いみたいな感じなんですかね。

ハンドマッサージ

お父さんのおかげもあって、愛さんは仮設住宅の集会所で行われるイベントにも参加するようになりました。

仮設での生活の中で、助かったことや良かったことはありましたか?

熊井さん:支援物資が届いたり、餅つきなどのイベントがありました。お父さんは(仮設の近くの)集会所で、その仕事もしていました。

どんなイベントが一番好きでしたか?

愛さん:ハンドマッサージとかの。

熊井さん:イベントでハンドマッサージをしに来てくれました。

してもらって、どうでしたか?

愛さん:香りも、純情でした。気持ち良かった。

熊井さん:その福祉仮設には、たくさんの障害者とそのご家族がいらっしゃったので、色々な支援があったと思います。お父さんもイベントのお仕事を一生懸命していましたね。

愛さん:はい。

医療支援が必要でした

尚子(しょうこ)さんが最初に不安になったのは、停電のため痰吸引器の電池が切れて、苦しくなるかもしれないということでした。

揺れが収まってからは、ご自宅に戻られたんですか?

尚子さん:いえ、(旧事業所から)近くの湊小学校に移動しました。そこに二晩泊まったあと、自衛隊の人に日赤病院(石巻赤十字病院)に連れて行ってもらいました。

病院にはどのくらいいましたか?

尚子さん:たぶん、10日くらいだと思います。

熊井さん:尚子さんには痰の吸引が必要でした。避難所になっている湊小学校にお話したところ、日赤に連れて行く手筈を整えてくれるということでした。そして、日曜日(3/13)に移動してもらいました。私たち職員は、移動したその日にすぐ、病院に連れて行かれるものだと信じきっていました。けれども実際は二日後に移動したという話をあとから聞きました。
 (小学校に居た2日間)小学校のすぐ隣には看護学校があったので、はじめは準看護師さんや看護学校の生徒さんに診てもらっていたそうです。その後、その方たちは日赤に招集されたので、ヘルパーをやっている方たちに支援してもらっていたということでした。

「ひたかみ園」に避難した人

(学校などの)一般の避難所から移ってきた方はどのくらいいたんですか?

柳橋さん:その数を今は把握していませんが、ご本人だけ、というのは少なかったと思います(ご家族で移動された方が多かった)。多分数名はいたんですが、結局、お家も家族も被災されているので、さみしい思いをされている方も多かったように思います。
 入所施設なので、お部屋は6畳でした。通常、入所の時は2人1部屋で利用者さんが使っていたんですが、そこを各家庭に、一世帯ずつに分けて入っていただきました。
 3月11日に地震があってから、避難所で共に過ごす中で、被災された皆さんの新しい今後の問題が出てきました。ほとんどの皆さんは、お家もない状態でした。そこで、日本財団さんや各関係各所にご協力いただいて、小国(石巻市内の地名)のところに仮設住宅(福祉仮設)を建てて、被災した方々が次の事を考える場所を法人として提供させて頂きました。 
 これらの事を、法人内のスタッフだけで支援をさせて頂くのは難しく、避難所には多くのボランティアの方々が関わってくださいました。その方々の長い支えもあって、避難所を続ける事ができました。 1ヶ月2ヶ月経ってくると、ラーメン屋さんだったり、ケーキを持ってきてくれるなどの支援をしてくれるボランティアの方々がありました。なかでも、(福祉)施設でケーキを作っているという事業所が、わざわざ愛知・新潟・からケーキを持って来てくれたことがありました。本当に遠くから色んな方々にお世話になりました。

繋がることの大切さ

横浜にいらしたとき、宮城県や横浜市の視覚障害者福祉協会に連絡をされたということですが、立身さんは何かをやりたいと思っていたのでしょうか?

多分ね。この先どうなるか分からない状態で、その地域でいろいろ繋がりができたのは自分にとっては良かったですね。今もいろいろなやり取りがあります。

 

離れていても繋がり、交流があるということですね。

そうです。施設の所長さんから紹介してもらった横浜の視覚障害者の卓球クラブにも行くようになったりして。申し訳ないけど充実してたのかなと思いますね。

 

そういう状況でも何かの役に立ちたいという気持ちが常にあったということですよね。

そんな立派なことではないですよ。何かをしたいという気持ちはあったと思います。今模索中なんですが、石巻地区で視覚障害者の就労支援に関することをやりたいと考えているところなんです。同じ想いを持った仲間も何人かいて。視覚障害者の就労支援というのはなかなか難しいんですが、難しいねで終わっていては何も進まないんで。例えば、仙台にある視覚障害者を対象とした障害者就労支援事業所で点字名刺や封筒を作っているのですが、自分達もできるのではと思って試行錯誤しているんです。とにかく形にしたい。形になれば行政などにも説明しやすい。次の段階も見えてくる。行政、社協の方々と協力しながら進めていきたいですね。それと、視覚障害者向けの情報ネットワークが弱いと感じているんです。当事者向けの情報がなかなかまわってこない。視覚障害者福祉協会に入っていない人がいますよね。堅苦しく感じて敬遠しているのかもしれない。そんな人達にも情報を流したいんです。

 

積極的に活動されているようですが、震災がきっかけになった部分はあるのでしょうか?

そういう部分はあるでしょうね。北上町にいた頃は、交通の便が悪いので家に籠りがちだったのですが、両親も震災の前の年に亡くなり、1人になって。この先のことを考えていたときにあの地震があって、田舎を出て行かなければいけなくなりましたから。

 

横浜から仙台に戻ってきてアパートに住んでいたとのことですが、そちらにはお1人で?

1人です。1部屋。みなし仮設ですね。民間借り上げの。

 

そちらでは何かサポートはありましたか?

生活面ではホームヘルパーの事業所の方に。それとアイサポート仙台、日本盲導犬協会仙台訓練センターの方ですね。外出時はヘルパーさんにサポートしてもらっていました。歩行訓練もやっていたのでひとりでも歩けるのですが、事故の話も聞いていたので外出時は同行援護してもらっています。

 

近所の方々は視覚障害に対しての理解はありましたか?

白杖をついて歩いていたんで、理解はしてもらっていたと思います。

 

例えば、近隣住民の方が歩くときに補助してくれるようなことはありましたか?

ヘルパーさんに頼むので近所の人では無いんですが、外で歩行訓練しているときに「遠慮しないで声掛けていいんだよ」と言ってもらったことはありますね。ありがたかったですね。

 

他の視覚障害の方にインタビューしたときに、場所が変わると環境認知が大変で家を借りて入ったときにその空間を認識するまで大変だったという話があったんですね。今、立身さんの話を聞いていて交差点を一人で行く、幅がどれくらいとか、階段の高さとかそういうのも大変なんだろうなと思っていました。

家の中の方が大変だと思いますよ。歩道橋などは手すりや階段があって一定していますから、いいんですよ。一定しないところ、例えば、幅の広いところとか、全然方向が分からなくなってしまったりしますね。仙台にいた頃は1Kかな、1部屋と風呂、トイレ。だから手を伸ばせば何かに手が届く。1人暮らしはこれでいいのかなと。最近大変だったのはここ(石巻市の新築のご自宅)です。去年の8月7日に引っ越ししたのですが、搬入を第三者にやってもらったら、どこに何があるのか分からなくなって。洗剤やら何やらまったく分からない。レンジの横にしばらくドリンクのような物があったんですが、「これはドリンクじゃないな」と思ってて。それはトイレ用品だったんですが(笑)。結局、体をあちこちにぶつけながら配置し直しました。

商品の開発

きらら女川といえば「さんまパン」が有名ですが、事業所再建の主力商品だったのでしょうか?

さんまパンはひとつのアイテムです。私たちの主力商品は「おからかりんとう」です。事業所再開後、全国の方々からご注文いただき本当に助けられました。アイテムがひとつだけってすごく怖いですから何本かの柱を持っているのが一番強いですね。これは大変でもありますけど足腰は強いかなと思います。

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