伝える

決断、そしてこれから

震災の翌月多賀城市より老人福祉センターを借り再開ができ、9月までのところをなんとかお願いして12月まで延長してもらい、たまたま新聞記事を見つけて年末に引っ越し、翌1月からソニー(現在・ソニー㈱仙台テクノロジーセンター内 復興パーク)内に移転しました。
当初は1,2年で別の所を見つけて再建できるという見込みだったんですけど、なかなか移転する先の土地が見つからなくて。もともとあった場所も考えましたが、またこんな同じ目に遭ったらと思うと…。これからはもう安心できる所、津波が来ない所と思ったが故、移転先を探すことがかなり難航したんですね。
6月にさくらんぼ及び桜花が更地になったのも再建か解体かの判断を慌てて迫られるような状況で。大きい決断ではあったけど同じ場所での再建はしないと決断したんです。

何もかもなくなったけど皆一緒だったから、不思議と不安はなかった。一歩一歩頑張ろうと思えたんです。我々は好きでこの仕事(福祉)をやってるんだから。施設を支えていかなきゃいけないと。利用者さんの声を代弁していかなきゃならない。伝えることで繋がるというか。

復興と伝承

県内を見ると、復興は進んでいますという状況とまだまだですっていう状況とで混沌としてるのではと思います。沿岸部の住民は、まだまだだと感じているのが多いんじゃないのかな。どこを復興のゴールとするのか。県外から来た人が見たらどこが被害あった所でどこが無事だった所なのかわからないし。復興したのかもともとそうだったのかが。場所を知ることでの共鳴が生まれたり。
あの震災から6年…過去の出来事として終わったことなのかなと思う時もあります。これからは伝承していくこと、何を残していくのかが一番大切であり難しいことだと思います。

「震災の何を忘れちゃいけないのか」
「震災の悲惨さなのか」
「助け合うこと」
「そして後世に何を残し伝えていくのか」

最後に震災を振り返り、たくさんの感謝を糧に先が見えない中でも歩んで行く強さは培えたような気がしています。再建できる日まで…これからも歩んでいきたいと思います。

経験を伝えるということ

今伝えたいことや思いはありますか?

 あの震災以降、震災経験やどんな備えをしていたか等、お話する機会があります。
 やっぱり、全国の海岸沿いにある福祉施設とか、同じように災害・津波が起きたらと不安を抱えているんです。
 この数年各地でお招きいただきお話しているのですが、果たしてそれが皆さんの防災に対する意識に届き、活かしてもらえているかなと不安に思うことがあります。
 熊本の地震が起きた時も私すごくショックで、私たちと同じようにつらい想いをしないように、私たちの震災の経験や想定して備えてきたことなどを活かしてもらえたらと伝えてきましたが、熊本やいろんな所で起きた人たちが同じ体験をしてしまい、お役に立てなかったのではと、つい思ってしまいます。
 災害発生を知るたびに、すごい悔しい想いをして、私みたいな者が伝えてどうにかなる問題ではないのは分かっているのですが、そう思ってしまいます。
 風化もありますし、その各地の人達の意識的な問題のところにどういうふうに訴えかければ、今後の災害時に彼らの生活を少しでも守れたり、災害時の福祉の課題とかをより理解してもらえるのかなというのは日々思っています。
 結局、私にできることはこうして話すことしかできないんです。
 まずは、私たちが経験した災害時の現状を知ってもらうことが、それぞれの考え方の何かの気づき・一歩になってもらえればと思っています。
 やっぱり福祉施設は災害時には、一般の方とはまた違う問題も発生しますし、だからこそこういう関わっている方には特に知ってもらいたいです。なぜなら、利用者さん・スタッフ含めて本当に震災で大変な思いをしたので、全国の仲間たちに、今後災害が起きた時に同じような思いをして欲しくないからです。
 震災後、県外海沿いにある福祉施設が法人全員で工房のお話を聞きたいと来られたところもあります。その後、私たちの経験談を踏まえて、防災対策に動いたことを聞きました。
 いろいろお話させて頂いたことが、今備えとしてその福祉施設に実際に役立ててもらえていることを聞くと、何か、ほっとします。そして、利用者さんを守るために行った私たちの備えや対応をそのまま生かすのではなく、その法人さんの中で協議してアレンジしていることもとっても良いです。どういうことが起きうるか知らないということは怖いことです。

想い

現在の立身さんの生きがいというのはマッサージの仕事と、先ほど言った仲間との情報共有のネットワーク作りと仕事作りということになりますか?

そうですね。そう言いながらもときどきね、テレビを見ているときとか独り言を言ってしまうんですね。(震災を)思い出したくなくても思い出してしまう。忘れようとしても忘れられるわけないだろうとね。しようがないよね、毎日いろんなことがあって。生きてるからね。生き延びたんだから。申し訳ないけど私は笑うよとか。独り言でね。酒も飲むし、でも時には涙も流すさ。申し訳ないけどもう少し生きるよって言いながらね。何だろう、自分を慰めているのかね。そんな感じになってしまう。

 

震災をきっかけにより想いが強くなったんですかね。

そうかも知れないね。いろんな人のいろんな考えがあると思うのね。みなさん、強くなったんじゃないですか。

 

立身さんは積極的に活動されていると思うのですが、そうやって発信している方々がいるからこそ、周りの人もたくさん力をもらっているんじゃないですかね。

それが目的というかね。

 

まだまだ様々なサポートがあることを知らない人が大勢いると思いますが、そういった人達に発信していけると生活が潤うというか、充実した人生が送れますよね。

こっちの方を向いてくれるかなって。同じ想いを持った仲間と協力しながらね。仲間も常に何かできることはないかと探しているんですよ。待つだけじゃなく、行政や社協の方に協力してもらいながら、ラジオ、新聞なども利用させてもらってね。

 

先ほど、当事者の人にもっと表に出てきてほしいという話がありましたが、内向きな方が多いのですか?それともきっかけが無いだけなんでしょうか?

うーん、きっかけがないのかな。多分、何をやったらいいか分からない。そういうところだと思うの。例えば交流会などで役所の人と話をしてもね、一回だけじゃだめだと思うの。何回か参加して考えないと。一回話を聞いただけで活動を始めても長続きしないと思いますよ。ゆっくり考えればいいじゃないですか。

 

まずは参加することですね。

そうだね。参加してほしいし、そのためには情報を流す必要がある。

 

そういった方々が表に出てくることで生き甲斐を見出してしいという想いがあるということですね。

そうですね。見出してほしいですよね。もし、表に出てくるのがイヤだと言うのであれば、いろんな音声情報があるじゃないですか。それを利用すればいい。例えば、プレクストーク(視覚障害者向けの音声を聞いたり、編集することができる機器)。プレクストークは役所に頼めば手配してくれる。そういうサービスがあることを知らない人もいる。必要なら教えてくれる人も来てくれるので。自宅でなら、3、4人くらいで練習会もできるんじゃないかなと。そこまでいきたいね。とにかくそのためには役所、社協の手を借りてね。

 

立身さんのようにポジティブで積極的に人と関わる方ばかりではないと思うのですが、そういう人達の背中を押してあげる役割をされているという印象を受けました。もっと情報を得ることができて、その中から自分で選んで行動できるようになればいいですよね。

そうなんだよね。自分で選べれば最高ですよね。もしかしたら、体を動かしてみたいって人も出てくるかもしれない。そうなると障害者スポーツに繋がってくる。

 

世界が広がりますよね。

広がりますよ、絶対。だからもったいない。

 

知らないってことはもったいないですよね。

やはり情報ですよね。そこをね、何とかして行きたいね。

 

立身さんもパワフルでいらっしゃいますね。

うーん、凄い人はいっぱいいるからね。でも、こういう風にいろんなことができるっていいよね。いろんな人の手を借りながらもね。石巻って震災後にボランティア団体がいろいろできたんだよね。そういうのと障害者ももっともっと繋がっていけばいいのになと思うんだよね。いろいろやってる人もいるみたいだけどね。

 

では、今後の課題ということですよね。

うーん、だと思いますね。

 

立身さんが震災前に住んでいたご自宅は、基礎だけが残り更地となってしまいました。近辺では多くの犠牲者が出ており、津波がいかに想定外で大きいものだったかを物語っています。立身さんの仰る繋がる事の大切さはもちろん、大災害を想定して、いかに備えるかが大事だという事を痛感する取材でした。

健常者への要望

今後、健常者の人に対して訴えたいこととか、健常者の人たちが渡辺さんのような方々にお手伝いをしたいと思った時には、どうしたらいいか教えてください。

筆談でもいいし手に文字を書いたり、無ければ地面に書いたりと方法はたくさんあるので、いろいろな方法でコミュニケーションを取っていただけるとありがたいです。そこに表情を入れたり、身振りだけでも分かるので、そういったコミュニケーションができればとても助かります。

これからの発展に思うこと

松原さんご自身は今も復興に向けて突っ走っているというご心境でしょうか?

突っ走っている気はないんですが止まると後退すると思っています。女川に障害者の働ける場をつくり、きちんと機能させていくことがそもそもの私に与えられた使命で、それだけを捉えれば達成感はあります。

基本的にきらら女川の事業所自体は地域の特性上、これ以上規模を拡大する必要は無いように思っています。

ただ、事業(仕事)の拡大は常に考えています。作業の効率、作業の改善、製品の品質向上、今の工賃をもっと上げていくためにはどうすればよいのか等、段取りや経済的なこと。

突っ走るわけでは無く、ある程度勝算を見込んで、まわりの協力を得ながらやってみる。万が一うまくいかないことがあったときは、速やかに撤退の方法を模索する。損害が大きくならないような工夫をすれば良いことだと思っています。

これまでも、その工夫の積み重ねなのかもしれません。

未来に向けて、きらら女川が目指しているものはどんなことですか?

それは、きらら女川の方針を次世代に引き継いでいくということです。

そのためには職員たちに対し、次の二つのことをしっかり伝えていかなければと思います。

私たちの仕事は、言うまでもなく障害者への就労支援です。

一つ目は、 自分の仕事に対する責任と厳しい目を養う。民間企業では当たり前のことです。

二つ目は、利用者のスキルを向上させるための努力を惜しまない。

私から伝え、そして伝え続けていってほしいと思います。できることを増やしていくのは、本人にとっても事業所にとっても喜ばしいことです。

まずは、我々職員がやって見せます。本人の努力と職員の根気でできるようになります。

「もう手伝わなくても大丈夫です」と職員が邪魔にされるくらいが理想ですね。

今、伝えたいこと

身近な所で、一般の方に対して伝えたいことは何かありますか

今現在、にょっきり団に関わっている友人が、小学校などで福祉研修というのをやっているんですよ。私たちの時代の子どもたちよりも、今の子どもたちの方が福祉にかなり関わってるんですよ。車いすを見ても、案外何とも思っていないんです。どちらかといえば大人の方が偏見があるように感じます。子どもは正直なもんで、変わったものがあればじーっと見るのは当たり前です。いい意味で障害者慣れしてるんじゃないかなって感じはしますね。こういう子らが育ってくれば、本当に日本っていいだろうなって思いますね。「だめだよ、近づいたら」なんていう大人の方にガッカリさせられますね。

 

大人こそもっと勉強していく必要がありますよね。

道徳の時間などで「車いすの操作」や「片麻痺の人の状態」を体験してみるとか、色々やっているみたいですからね。自分が小さい頃は障害者を見ること自体が無かったですからね。環境が違うと思います。

 

今はお一人で外に出られたりする機会もありますか。

近所を散歩したりは、一人で出ることもあります。買い物なんかに行くときは、車に乗せていってもらって、その後は一人で動いています。この夏にはヘルパーさんを利用して、にょっきり団のみんなと一緒に県立美術館に美術鑑賞に行ってきました。楽しかったですね。

 

飛川さんにとって、にょっきり団というのは大切な団体になっているんですね。

そうですね。市に相談や陳情をする際の窓口として、情報交換の場としてであったり、一緒にアート展を観に行ったりもできる、そういう場所があってもいいかなと思います。あんまり怖がらずに関わってほしいですね。あんまり特別なもんでも無いと思うんで。ちょっと体が動きにくいだけで。一歩引かれてしまうと、何も言えなくなるんですよね。だから、普通でいいんですよ。過剰に「大丈夫ですか?大丈夫ですか」って来られすぎても、それも大変です(笑)緊急時はズカズカ来てもらった方がありがたいし、その辺の距離感ですよね。

 

そうなんですね。「あんまり障害のことは詳しくわからないけど、手伝う気はある!」っていうのを示していけばいいんですね。

こっち側もどうしてほしいかはっきり言わないから、悪い部分もあるんですけどね。私も初対面だともじもじしちゃうかもしれないしね。普通の人でも人付き合いって難しいですからね。

織音のいま

震災から8年が経過した今(取材日は2019年2月)、再び織音の熊井施設長を訪ね、現在の織音の活動について取材しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

現在、織音ではどのような作業をされているのですか?

利用者さんは「さをり織り」の生地を織っています。職員はその生地を製品化し、販売しています。また、委託作業として内職作業も行っています。

 

さをり織りの製品作りは震災前から行っていたのでしょうか?

そうです。震災前は地域活動センターとして活動していたのですが、その時は自分たちが身に着けるために作っていました。趣味的に製作しながら販売もするといった形です。震災後は販売を念頭に置いた製品作りを行ってきました。

 

販売は震災後から力を入れ始めたのですね。

そうですね。支援という形で購入して下さる方がいらっしゃったので。その売上は工賃になりますので、避難生活をしていた利用者さんにとっては大きな励みになりました。

 

震災後、利用者さんに何か変化はありましたか?

お客様が来ても積極的に関われるようになりました。恥ずかしがりやだった方が一歩前に出れるようになったことが嬉しかったです。しかし、震災直後は事業所の再開も危ぶまれており、利用者さんは自身が置かれている状況をきちっと理解できず、大きな不安を抱えていたと思います。

 

震災から8年が経ちますが、利用者さんの不安はどの程度解消されたと思いますか?

生活は元の水準になりつつありますし、ある程度は解消されたと思います。しかし、まだ問題もあります。あるご家庭では利用者さんの面倒を祖父、祖母が見ていたのですが、体力的な問題からそれが難しくなりお母さんが仕事を辞めざるを得なくなりました。震災の影響もあったのかも知れませんが、そこを汲み取れなかったことに責任を感じています。

 

織音の今後の課題や目標を教えてください。

今まで利用者さんの工賃向上のために頑張って製品を作り、販売してきましたが、最近では工賃よりも事業所で楽しむ時間を重要視する方が増えてきました。織音の在り方を考える時期に来たのかなと思います。今後の織音の方向性を利用者さんと親御さん、職員全員でじっくり考えていきたいですね。

 

ありがとうございました。

 

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